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●井上馨 いのうえかおる

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 1835〜1915(天保6〜大正4)明治の政治家。幼名を勇吉。のち文之輔。周防国湯田村の長州藩士の家に次男として生まれ,藩校明倫館などに学んだ。18歳のとき同藩士志道慎平の養子となり,名を聞多と改め,江戸に出て有備館に学んだ。また,剣や砲術の修業もし,蘭学や英学も学んだ。尊王攘夷運動に参加してイギリス公使館焼き打ちを実行。1863年(文久3)志道家を離れて井上姓に復し,伊藤博文らとイギリスへ留学したが,4国艦隊下関砲撃計画を知って帰国。砲撃事件後,和議成立に尽力し,また藩政権を握っていた恭順派を破り藩論を倒幕へと回復した。1868年(明治1)九州鎮撫総督の参謀をへて新政府の官界入り。造幣頭などをへて大蔵大輔となり財政に力を入れた。1873年司法卿江藤新平の放漫政策などによる財政危機を批判して辞職,一時実業界にあった。官界復帰後,外務卿として条約改正の準備にあたり,1885年内閣制度成立直後の外務大臣となって,条約改正のため欧化政策をとり,いわゆる鹿鳴館時代を現出させた。しかし,世論の批判を俗びて辞職。その後農商務相・内務相を歴任。第3次伊藤博文内閣では大蔵大臣となって,金本位制を実施し,また紡績業・鉄道事業などをおこして殖産興業につとめた。1898年以後は官につかず元老となる。財界には大きな力をもち,三井財閥の最高顧問にもなって“三井の大番頭”ともいわれた。

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