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●稲荷信仰 いなりしんこう

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 京都の伏見稲荷大社を中心とする信仰であるが,宮城県の竹駒稲荷,茨城県の笠間稲荷,愛知県の豊川稲荷を初めとして地方ごとに著名な稲荷社も多く,稲荷信仰はほぼ全国的に分布しており,なかでも東日本が卓越している。稲荷信仰は稲荷神の使令あるいは稲荷神そのものを狐とする信仰,人名や土地名などを冠した呼称,正一位という神階,2月初午詣,朱色の鳥居や旗など特徴ある信仰形態を示しているとともに,農業神・漁業神・商業神・託宣神・憑依神など幅広い性格を有し,民衆信仰を代表する信仰の一つである。

伏見稲荷大社】稲荷信仰の総本社とも称すべき存在であり,その祭神には諸説があるが,宇迦之御魂大神を主神として佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神の5神を祀る。711年(和銅4)2月の創始と伝え,伏見稲荷の起源に関する二系統の縁起がある。一つは『山城国風土記逸文』記載の〈伊奈利と称ふは,秦中家忌寸等が遠つ祖,伊侶具の秦公,稲梁を積みて富み裕ひき。乃ち,餅を用いて的と為ししかば,白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り,伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき〉というものであり,他方は『稲荷記』の〈大師(註弘法大師)紀州田辺の宿におひて,異相の老翁に遇給へり,其長八尺はかりにして,骨高く筋太して,内に権化の相を含(中略)彼紀州の老人,荷稲,椙の葉を提て両女を率し,二子を具して東寺の南門に望給ふ〉というものである。この二系統の縁起はともによく知られたもので,伏見稲荷大社の起源・発展を物語っている。つまり,まず農業神として信仰され,帰化人であり機織などにすぐれた秦氏が掌握することによって商業神としての性格を帯び,さらに東寺の鎮守神として祀られ,治病などの加持祈祷を専らにした真言宗と結びつくことによって多様な性格をもつとともにいっそうの発展をみたといえる。827年(天長4)従5位下の神階を受けたことを初見とし,940年(天慶3)には従一位を受けている。平安時代から中世期にかけては,初午詣の賑わいはもとより,稲荷祭も京都の祭りを代表する華麗なものであった。

【民衆信仰としての稲荷信仰】今日全国で約4万社の稲荷社があるといわれ,それに屋敷神としての稲荷を加えると,その数は膨大な数にのぼる。こうした状況を呈するにいたった背景には,田の神の使令を狐とする信仰があり,地名として各地に分布する狐塚も本来は田の神の祭場であった。田の神と狐との結び付きは,狐の食性や生態によるものであり,狐の鳴き声や供物の食べ方によって吉凶を占うことも多い。一方稲荷信仰の普及にとってもその使令とする狐が重要な役割を果たし,民衆の稲荷信仰は狐そのものに対する信仰と称しても過言ではない。同時に狐や稲荷神を降して託宣をしたり,狐憑きを落すなどして活躍してきた巫女・修験・行者などの解説・宣伝が果たした影響も無視できないものがある。江戸時代の中・後期に江戸市中の稲荷信仰は,〈武家及び市中稲荷祠ある事其数知べからず,武家及び市中巨戸必ずこれ在り,又一地面専ら一二祠これ在り,これ無き地面甚稀とす。諺に江戸に多きを云て伊勢屋稲荷に犬の糞と云也〉という状況を示しているが,この現象も巫者・修験・行者たちの狐を使っての託宣や憑きもの落しなどを媒介として流行神的性格を帯びて普及した結果である。また,稲荷信仰が東日本に卓越していることは,西日本に家筋を形成している憑きものが多いことや,近畿から中国地方にかけて狐狩(狐の害を除くための予祝行事)と寒施行(寒中に食物を与えて歩く行事)というように,狐を田の神の使令とするのとは相反する習俗が認められることなどとも関連させて検討する必要があろう。

〔参考文献〕直江広治編『稲荷信仰』1983,雄山閣

近藤喜博『稲荷信仰』1978,塙書房

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