●伊那節 いなぶし
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伊那節のことを地元では“おんたけ山”と呼び,祝儀や集会の折,二組宛一組連章となって歌われるこの歌は,伊那谷各地域で正調伊那節として節回しに特徴をもっている。伊那節の多くの歌詞のなかで,〈木曽へ木曽へとつけだす米は,伊那や高遠の涙米〉〈涙米とは勿々いうておくれ,伊那や高遠の余り米〉と,1795年(元禄9)権兵衛峠の開さくにより,高遠藩の年貢米の大半が木曽へ付けだされ,中山道の助郷に伊那の村々がかかるとともに,おんたけ踊に馬子歌が加わる。1908年(明治41)長野で開かれた1府6県の共進会の余興に上伊那の芸妓連によりおんたけ山が歌われたが,木曽と区分するため伊那節と呼んだとされる。地元では幾通りもの伊那節が競演保存され,戦後正調節として統一となった。飯田伊那節・市丸伊那節も一つの流れとみなされよう。〔参考文献〕渡辺直昭「伊那節の移り変り」伊那486〜487
向山雅重「伊那節の系譜」信濃7−8