●稲作 いなさく
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稲作は日本農業の根幹をなすものであり,その生産様式は社会的・文化的に重要な意義を与えた。日本の稲作の主流は水田稲作であり,この場合は畑作物のように連作を忌むことはなく,水田土壌のもつすぐれた肥沃度の維持により畑作物より収穫の安定性が確保される。また水田で栽培された稲はほかの雑穀類と異なり無肥料栽培でも相当な収量が期待され,また十分に肥培管理を行って栽培した場合,収穫量がきわめて高くなる。稲はほかの雑穀類に比べ脱穀・精白・調整が比較的容易だといわれ,精白米は良質の蛋白質を含み,副食物から少量の蛋白質,ビタミンを補えば米食だけに依存した食生活を送ることができる。これに反しパン食の場合,パンはカロリー源で乳・乳製品・肉を蛋白源として摂取する必要があるという。江戸時代,武士の一人扶持の標準が1日5合であったことは,稲のこのような特質を経験的に知っていた上での算出と思われる。【稲作の起源と伝来】従来稲はインドあたりの熱帯の低湿地で栽培化されたのが起源だろうといわれていたが,最近渡部忠世らの調査研究でインドのアッサムから中国の雲南にかけての地域が,アジアの栽培稲や野生稲の起源の地域として有力だという説が出されている。この地域は北緯22度から28度くらいの,熱帯から温帯への移行地帯であり,ことに光合成のプロセスから稲には熱帯作物の典型とはいえない特性があり,また古い栽培稲品種には水稲的性質と陸稲的性質,インディカ的形質とジャポニカ的形質の未分化稲,モチ稲とウルチ稲の中間種などの分布がアッサムにあり,雲南の調査においても非常に制約されたなかであったが,未分化の稲が発見されたという。渡部は雲南省の未開放地域,ビルマのカチン州山岳地帯などが調査の空白地帯であり,これらの地域の調査を抜きにしては軽々しく起源地を最終的に論ずることはできないとしているが,雲南のシーサンパンナー(西双版納)の調査を通じて,アジア栽培稲の起源がアッサムと雲南を結ぶ一帯にあった可能性がいよいよ確実性を増してきたとしている。なお稲にはアジア稲またはアジア栽培稲といわれるオリザ=サティパとアフリカ稲またはアフリカ栽培稲と呼ばれるオリザ=グラベリマがあり,アフリカ稲の租先はオリザ=ブレビリギュレータという西アフリカにだけ分布する野生稲だといわれ,分布は拡大しなかったらしい(渡部忠世『稲の道』による)。またアジアの栽培稲にはジャポニカ(japonica=日本型)とインディカ(indica=インド型)の2群があり,前者は粒が比較的丸く粘りが強く,後者は粒が比較的細長く粘りが弱い。中国では前者をコウ※注1※(粳)といい,後者をセン※注2※という。さてアッサム・雲南起源説はその調査法がインドや東南アジアに残っている古い日干煉瓦に混入された籾穀や現在の栽培稲等を農学・遺伝学的に調査,また野生稲の探索にまで及んでいるので,文献のみによる起源説より説得性がある。またその伝播に関する論旨も明快である。すなわちアッサム・雲南地帯は東南アジアやインドの大河川,また揚子江の源流がある地帯であり,民族や文化の移動の交点に当たる重要な地域であったとし,これらの地から稲作が南下,古くはそれらはジャポニカ型であったのが,インドや東南アジアのデルタ地帯には水利施設の完備に伴って早生のジャポニカに代わって晩生のインディカが分布をひろげていったのであろう。また中国についてはコウ※注1※(ジャポニカ)は揚子江,セン※注2※(インディカ)は西江によって雲南から伝播したとする。中国における古代稲作技術は諸説があって一定しないが,華北に田植農法が漢代に存在し,それが江南の稲栽培に影響を与えたとする従来の説は疑問視されている。日本への伝来は江南から弥生時代に水稲作が導入されたというのが定説であるが,これについても渡部忠世は幾筋もの稲伝来の道があったとし,〈アジア大陸の稲作圏にほとんど最後に仲間いりした日本が,たったひとすじの経路によって稲を受容したとは考えにくいように思われる〉(『稲の道』)と述べている。ただし水田稲作が弥生時代に定着したことを否定しているわけではない。さてアッサム・雲南起源説について注意すべきことはこの地が照葉樹林地帯であり,それは中国の江南山地をへて西南日本に及んでいる。そしてこの地帯の文化を特色づけるのはサトイモ・ナガイモ等のイモ類,アワ・ヒエ・シコビエ・モロコシ・オカボ等の雑穀焼畑農耕があり,これらの雑穀や稲のなかから多くのモチ性の品種を開発,粘性に富む特殊な食品をこの地帯に流布させたといわれ,雑穀焼畑農耕を基盤とする照葉樹林文化は稲作文化の母体になった文化だとし,日本の稲作も照葉樹林文化の背景を考慮しないわけにはいかないとする点である。それゆえ水田稲作については縄文晩期とも弥生前期ともいわれる福岡の板付遺跡をはじめとする北九州の水田跡が整備された水田であり農具類のセットが完備された形で出土しているので,揚子江下流や江南の地で完成した水田農耕文化を,そのまま日本に導入したことには異論はないが,北九州に定着して以後,急速に西日本に伝播した点について,西日本に複雑な水田経営の技術を受容する文化,すなわちオカボ的な稲を含む雑穀類を焼畑や天水田で栽培した先行文化すなわち照葉樹林文化がなければ理解しにくい。端的にいえばわが国農耕文化の発展段階は周辺の照葉樹林文化圏から孤立しては考えられないとする説が唱えられている。焼畑先行説には否定的な見解もあるが,これは考古学的には出土しにくい遺跡であるから,今後の考古学の進展,および農学・自然科学・文化人類学・民俗学等の学際的研究によって稲作以前の農耕文化を究明する必要があろう。
【日本における展開】水田稲作は水利用が特徴となっている。水利用の方法は初期の段階では山沿いの傾斜面などの自然の湿地が利用され,次に洪水の危険の少ない小河川あるいは天然の池沼等の周辺等が利用されたと思われる。しかしこのような自然に依存する水田耕作は旱害も受けやすく利用できる地域も限定されてくるので,古墳時代以降中央集権的な国家体制が整備されるに従って,灌漑施設の構築が行われ貯水池による用水の確保が平安時代までつづき,室町時代には貯水池利用のほかに河川灌漑も利用され,さらに江戸時代には土木技術の発達によって大河川の治水工事・用水路の掘削・潟の干拓などが施工され飛躍的に耕地が拡張された。1920年(大正9)に耕地の拡張は最大に達するが,それ以降は減少をたどっていく。水利用法を大別すれば雨水に頼る天水田・河川灌漑・溜池灌漑となるが,水田耕作発展の初期の段階では灌漑の便が比較的容易であったから,用水配分もあまり問題とならなかった。しかし水田経営が高度になるに従って用水の分配について複雑な問題を生じ,中世には荘園同士の用水争論が発生,以下現代にいたるまで水利紛争が多発する。水田耕作における水は,一方では公共的に管理されながら生産者にとっては細分性・排他性が要求されるところから,種々の水利慣行を生み,水利社会を形成させた。また稲作は複雑な技術を含みその生産の安定を祈るため多様な農耕儀礼を伴った。なお米が貢租の対象となり儀礼の複雑化が加速された面があると思われる。
【稲作技術】日本の稲作は苗の移植栽培すなわち田植農法が大勢を占める。そのなかで主として関東と九州との一部で水稲直播(ツミタ・ミマキ・ミウエなどという)が行われた。水稲直播は苗代に播種せず本田に直播する方法である。これらの地の直播法は旧来から伝承された技術であるが,そのほかに伝統的直播法を改良した方法が第一次世界大戦ごろに行われたが,これはあまり普及せず,第二次世界大戦後再検討された。しかし最近は田植機の発達と普及が著しく,直播はもちろんのこと苗代田さえ不要にしてしまった。苗代田から移植する旧来の田植農法では苗代ごしらえに始まって,種浸け・苗代に播種・本田耕起・田植・除草・稲刈となるが,この間にも複雑な作業がある。たとえば本田耕起にしても緑肥を投入したり,田植前は畜力による馬鍬(まぐわ)で湛水した田をよくかき,保水をよくした(『延喜式』にもすでにみえる)。種の選別も明治時代になると塩水選が行われ,また播種も苗代一面に撒播する方法から蒔床を短冊型にやや高くした短冊苗代に播種するなど改良が行われた。江戸時代に耕地が拡大すると,牛馬を用いた畜力利用の耕耘がなされ,それが耕耘機出現までつづいた。除草も2〜3回実施するが,除草機出現までは手で行うなど辛労の多い労働がつづいた。除草機も現在では除草剤の普及によって不要となった。水田用農具の発達について概観すると,耕起具・調整具など基本的な農具は弥生時代から江戸時代にいたるまで,材質・形態などに変化はあるものの根本的な差はない。しかし古墳時代に始まった鉄製農具の導入は画期的なことであったが,刃先に鉄を用いた農具は貴族・土豪の独占するところで,一般の農民は彼らから貸与されて用いていた。室町時代末になってようやく小農民も鉄製刃のついた農具を用いることができるようになった。稲の収穫には弥生時代・古墳時代・律令時代にわたって穂首刈りで,稲刈鎌による根刈りは10世紀後半に京都周辺にみられるようになる。穂首刈りの道具は石包丁・貝包丁,それに類似した鉄鎌が用いられた。稲の脱穀は扱箸(こきばし)に穂をはさんで扱く方法が長く行われたが,江戸時代の元禄・享保のころ千歯扱(せんばこき)が出現,ことに鉄製千歯は脱穀の能率を高める画期的な農具であった。そのほか古代以来の基本的な農具以外のものが江戸時代には登場するが,それらが全国的に用いられたわけではなく,地域差があって一定していなかった。たとえば沖縄諸島においては扱箸(沖縄名,くだ)が長く使われ,千歯がかなり普及したのは昭和になってからという。また奄美・沖縄諸島では比較的最近まで犁(すき)や鍬(くわ)を用いないで,牛を田に追い込み歩き回らせ土壌をねって調整する踏耕が行われ,屋久島・種子島・薩南地方でもかつて行われていた。これは東南アジアにつながる農法である。以上各時代とも同一の農具・技術が画一的に全国で行われたわけではない点に留意すべきである。
〔参考文献〕渡部忠世・桜井由躬雄編『中国江南の稲作文化』1984,日本放送協会
佐々木高明編著『雲南の照葉樹林のもとで』1984,日本放送協会
渡部忠世『アジア稲作の系譜』1983,法政大学出版局
渡部忠世『稲の道』1977,日本放送協会
柳田國男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史』上・下,1969,筑摩書房
古島敏雄『日本農業技術史』古島敏雄著作集6,1969,時潮社,(1975,東京大学出版会)
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