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●伊藤博文 いとうひろぶみ

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 1841〜1909(天保12〜明治42)明治時代の代表的な藩閥政治家。幼名を利助・俊輔といい,春畝と号した。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父林十蔵が伊藤家の養嗣子となって最下層の士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に身を投じた。1863年(文久3)井上馨らとイギリスに留学,四国連合艦隊の長州藩攻撃計画を知って帰国,藩論の転換をはかったが失敗した。さらに第1次長州征伐を迎えての藩首脳の屈従的な処置に憤激して高杉らと挙兵,藩保守派の軍隊を圧倒し,これ以後,藩の主流派となりおもに対外折衝の任にあたった。1868年(明治1)外国事務掛として明治政府に出仕し,参与,さらに兵庫県知事をへて大蔵少輔で民部少輔を兼任,木戸孝允の下で開明派官僚として頭角を現した。さらに1871年(明治4)岩倉遣外大使に随い副使として米欧に出張,この間に同じ副使の大久保利通の信頼を得るに至った。1873年(明治6)征韓論をめぐる政府内の対立では岩倉・大久保らとともに征韓派を退け,その直後の政府改造で参議兼工部卿となった。1875年(明治7)には大阪会議を周旋して漸次立憲政体に進む方向を詔勅で示し,元老院・地方官会議を新たに設けて政治体制の改革をはかった。1878年(明治11)大久保が暗殺されると,そのあとをついで内務卿となり,自由民権運動の高まりに対しては1881年(明治14年)の政変で国会開設の時期を詔勅で明示して一定の譲歩を試みるとともに,政府から大隈重信らの進歩派を排除して藩閥政府内の一体化をはかった。翌年からドイツ・オーストリアで憲法調査にあたり,1883年(明治16)帰国後は華族令の制定をはじめ,立憲制に対応する諸制度の改革に着手した。1885年(明治18)12月内閣制度を創設して初代の総理大臣に就任,中央政府や地方制度を整備し,学校令を制定して教育体系を整えた。しかし,外相井上馨が推進する条約改正交渉に反対する声が政府の内外で強まり,交渉を中止し,さらに保安条例を公布して反政府運動を弾圧した。この間,井上毅らとともに憲法草案などの起草にあたり,首相辞任後新設の枢密院議長に就任してその審議を指導した。1892年(明治25)8月第2次内閣を元勲を中心に組織,翌年詔勅によって懸案の軍艦建造費を実現し,さらに条約改正交渉に反対する対外硬運動を抑圧して1894年(明治27)7月日英通商航海条約に調印,法権の回復に成功した。また東学党の乱を契機に朝鮮へ出兵し,日清開戦の発端をつくり,挙国一致の体制で戦争指導にあたり,1895年(明治28)講和条約を締結したが,その直後に三国干渉をうけ,遼東半島の還付を余儀なくされた。これ以後,軍備拡張を中心とする日清戦後経営に着手し,そのために自由党との公然たる提携に踏み切った。さらに1898年(明治31)に組織した第3次内閣では,戦後経営の財源として地租増徴法案を議会に提出し,政党の反発にあって総辞職した。このころから中国情勢の緊迫化するなかで国内体制安定の必要を痛感し,政党結成に乗り出し,1900年(明治33)9月伊藤系官僚と憲政党員を中心に立憲政友会を創立し,その総裁となった。同年10月政友会を基礎に組織した第4次内閣は貴族院側の反発にあって増税法案の成立に苦闘し,さらに財政計画をめぐる閣内対立のため,翌年5月には総辞職した。これ以後は元老の筆頭として首相の選任や重要政策の決定に参画することになるが,対外政策では日露協商論に立って訪露を試み,また日露開戦前には“満韓交換論”による外交交渉での妥結につとめた。日露戦争中から韓国支配の強化をめざして韓国王や韓国政府と交渉を始め,戦後に新設された韓国統監府の初代統監となり,韓国の保護国化を推進した。1907年(明治40)ハーグ密使事件を契機に皇帝を譲位させて日本の内政権を拡大し,また韓国軍隊を解散させた。 1909年(明治42)統監を辞任,枢密院議長に復帰したが,日露関係の改善をめざして蔵相ココフツォフと会談するために渡満,10月26日ハルビン駅頭で韓国の独立運動家安重根に暗殺された。元老中では国際通をもって自認し,よく国際情勢を顧慮した慎重な対応策を選ぶことにつとめた。

〔参考文献〕春畝公追頌会編『伊藤博文伝』3巻,1940,統正社

遠山茂樹編『近代日本の政治家』1964,講談社

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