50音順    検 索

●伊藤仁斎 いとうじんさい

アジア 日本 AD1627 江戸時代

 1627〜1705(寛永4〜宝永2)通称と本名は,はじめ源吉維貞,のち源佐維禎。屋号は鶴屋七右衛門。仁斎は号。諡号は古学先生。江戸時代初期の儒学者。京都市上京区東堀川通出水下ル4丁目に,伊藤七右衛門長勝(号は了室)と那倍(里村氏)の長男として出生。先妻は嘉那(尾形氏),後妻は総(瀬崎氏)。5男3女を生む。京都の上層町衆の家に生まれ,独学同様で朱子学を学ぶ。30歳前後に朱子学から離れ仏教・道教に傾斜。やがて儒教に復帰し,1661年(寛文1),同志会を設立し有志と共同研究を開始。1662年,古義堂を開き,独自の学説を教授。門人3,000人と称せられた。主著は,『論語古義』『孟子古義』『中庸発揮』『語孟字義』『童子問』『古学先生文集』など。生存中,1冊も自己の著作を刊行せず,もっぱら原稿の完成に努力。死後,長男東涯や門人たちの手で修正を加えて出版。仁斎の学説を研究するためには,刊本でなく稿本(天理図書館古義文庫所蔵)による必要がある。その学説は,『論語』『孟子』『中庸』を後代の注釈を排除して読解し直接に聖人の古義を把握せよという“三書主義”,気だけを世界の構成要素とする“一元気論”,儒教の正統思想と個別の文章解釈を関連させる“意味血脈論”,人情を道徳の基本におく“人情説”などを特徴とする。とくに人情説には京都町衆の意識が示されている。その学派を古義学派・堀河学派という。古義堂第2代は長男東涯が継いだが,次男梅宇,三男介亭,四男竹里,五男蘭嵎嵎も俊才として著名。

01