●囲田 いでん
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中国,宋代の浙西路デルタにおいて洪水から水田をまもるために囲岸(堤防)を築いて水田を囲んだものをいう(狭義)。この呼称は北宋末の趙霖(ちょうりん)が治水事業を行ったころより使用され,南宋には囲田運動が盛行し,元では「囲」が行政区画となったが,明以降はほとんど使用されなくなった。一方,広義には坪田・湖田を包含することもある。この狭義の囲田についてその発展の経緯をみると,まず浙西デルタは唐末から北宋中ごろまで縦浦横塘(じゅうほおうとう)がつくられた。その構造は松江の南北にわたって縦浦(クリーク)をつくり,これとある間隔を保って横塘(クリーク)をクロスさせたもので,これによって灌漑排水機能をもたせ高田区の水田経営をなし,さらにこのクリークを延長して低田区の排水も兼ねさせた。こうした縦浦横塘のクリーク網によって囲まれた水田は坪田と呼称し,江東路のものと同一の呼称であった。このクリーク網は元来堰組織であったので舟運に不便であったからこれを破壊した。そのため満潮時に潮がクリークから水田に入り,塩化現象により水田は荒蕪不毛地となった。そこで北宋煕寧年間にコウタン※注1※らが三中六浦を復興し水利の再開発をはかったが実行されなかった。これを継承した趙霖による治水事業がすすめられると,これを契機に国家・貴顕・寺観らが囲田を造成し荘園を形成し,佃戸が耕して租を納めた。ここではクリークに閘組織を取り入れたので,舟運と灌排水の両方に便であった。この浙西路は公田的性格が強かったので開発も公的性格と結び,しかも生産の主力を担う経済地帯として重視されたので,従来のウデン※注2※の呼称を改め,特別地区として「囲田」と呼称した。囲田は時々民衆の灌漑の利を害したので,宋はしばしば開掘を命じたが効果はなかった。
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