●夷狄 いてき
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古代中国における未開野蛮の人々をさす呼称。いわゆる中華思想による東夷・西戎・南蛮・北狄のうちの,東夷・北狄のこと。東夷は,黄河中・下流域の中華地帯から東の満州・朝鮮・日本などを,東方の夷人と位置づけたもの。『魏志』の東夷伝中に卑弥呼の国邪馬台のことが扱われているのは,その例である。北狄は,北方塞外の民族である匈奴・鮮卑・突厥・契丹・韃靼などのことで,ほとんど遊牧民である。多くの文化的事象を古代中国から学んでいる古代日本でも同じように,東方と意識する陸奥側の人を蝦夷,北方と位置づける出羽側の人を蝦狄と表現する場合が多かった。東の蝦夷・北の蝦狄を夷秋と総括し,884年(承和11)9月官符のように夷狄=蝦夷の意になる。【日本古代の東夷】平安時代から中世にいたってさえ,東国武士を「あづまえびす」と表現しているほど,この用語は伝統性をもっている。東夷の出典としては『日本書紀』には次のような記述がある。景行天皇紀27年条〈東夷の中,日高見国あり〉,40年条〈東夷多く叛す〉〈其れ東夷たるや,識性暴強にして凌犯宗と為す〉〈其れ東夷の中蝦夷是れ尤も強し〉,応神天皇紀3年条〈東の蝦夷悉く朝貢〉,斉明天皇紀元年条「東〈東とは陸奥なり〉の蝦夷」。また『続日本紀』には,奈良朝に入ってからの720年(養老4)の9月条に播磨按察使正四位下多治比県守を,従五位上阿倍駿河を持節「鎮狄将軍」としたのに対し,持節「征夷将軍」とした記述があるように,対蝦夷政策では,東夷は北狄と区別されていた。『続日本紀』では725年(神亀1)にも,鎮狄将軍と対応して征夷持節将軍正四位上藤原宇合が任命されている。将軍は大将軍とも大使とも記されており,780年(宝亀11)春の伊治呰麻呂の反乱に際して陸奥に派遣された将軍も,征東大使・征東使と称している。平安時代に入ってからも,征東将軍大伴家持・征東副将軍大伴弟麻呂(乙)・征東大使紀古佐美・征東副使多治比浜成などというように,東と夷の同義観は明白であった。791年(延暦10)に大伴弟麻呂を征東大使・坂上田村麻呂らを同副使に任じ,793年(延暦12)2月17日「征東使を改めて征夷使と為す」という改正が行われてからは,「征東」の語は用いられなくなった。坂上田村麻呂が797年(延暦16)11月5日に征夷大将軍に任ぜられてのちは彼の活躍もあって,征夷の語は,従来の東夷・北狄に対する征東・鎮狄の両者を総括する概念をもつようになった。陸奥地方を対象にした東夷の念は薄れ,東日本全体をさす東夷・あずまえびすの語義が一般化する。
【日本古代の蝦狄】『続日本紀』には,697年(文武1)の冬に「陸奥蝦夷」という語に対応して,「越後蝦狄」という語があり,翌年にも〈越後国の蝦狄方物を献ず〉,翌々年にも〈越後の蝦狄一百六人に爵を賜ふ〉と継続的に表れている。708年(和銅1)越後国出羽郡が建てられると,翌年には陸奥・越後2国の蝦夷を征すために,陸奥に鎮東将軍を派遣したのに対し,越後は征越後蝦夷将軍佐伯石湯らが発令された。この征蝦夷将軍は征狄将軍とも呼ばれていた。720年9月にも陸奥への持節征夷将軍に対し,持節鎮狄将軍阿倍駿河が任命されている。780年3月には安倍家麻呂を出羽鎮狄将軍としたが,5月に出羽国に下した勅のなかに「渡嶋の蝦狄」という語があり,北狄の概念が明確に生きていたことがわかる。792年(延暦11)にも〈出羽国の平鹿・最上・置賜三郡の秋狄の租〉とある。奥羽で夷・狄の区分があまり顕著に表現されなくなってからも,810年(弘仁1)の陸奥国の上中に「渡嶋の狄」という語があり,北海の住人を狄と表現していた。814年(弘仁5)にも陸奥国の言上は,北方津軽の人々を「津軽の狄俘」といっており,875年(貞観17)にいたっても,出羽国から「渡嶋荒狄」が80艘の水軍でやって来て,秋田郡・飽海郡など沿岸部の住民21人を殺略したという報告書が出されている。このことから,狄の概念が,北方の国郡制適用地域外の住民を表すものに変化していったことがわかる。『日本三代実録』881年(元慶5)8月14日条の出羽国司の言上には〈俘囚及び諸郡の田夷,ならびに渡嶋の狄等〉とあって,北方渡嶋の住民にのみ狄のこの語を用いているのは,このことをよく示している。885年(仁和1)になっても,「凶狄陰謀兵乱の事」という用字法があって,反乱者などに対しては,出羽国内も含んで狄の語が使われたとも考えうる史料もあるが,893年(寛平5)の出羽国の奏状には〈渡嶋狄と奥地の俘囚ら戦闘を致さんと欲し〉と述べており,国域奥地の夷民たちと,狄とを明別して扱っているから,この大勢は確かなものであった。
【夷狄思想とその原譜】夷狄の思想,玄蕃寮に「在京の夷狄」を管轄する任務が与えられるように,外国人を夷狄として区別する規定もできた。在京の唐国人のような蕃人も夷狄の例に入るというのが,奈良時代の明法家の説である。蕃人とか蕃客とかという表現で外国人を位置づけることが,すでに夷狄思想の現れである。蕃客接応のことは大宰府の任務規定にもある。「賦役令」辺遠国条には「夷人雑類」という語があって,〈東は夷狄なり。雑類はまた夷の種類なり〉と解釈されている。夷は東夷を例としてあげて他の同様なものをもともに示すのだという説明もあり,蝦夷(毛人)のほか南の肥人・阿麻弥人・隼人も入るという解釈も示されている。同じ「賦役令」の没落外蕃条にも,外蕃に没落して無事帰還できた者には,復(税役免除の特典)を与えるという規定があり,〈若し夷狄に略取されて,還るを得たる者も亦同じきなり〉という解釈をしている。蝦夷(毛人)・隼人を外審とは本来いえないが,扱いは同じだとの見解も示されている。本来は,外蕃と夷狄は違う意味をもつはずであるが,律令法の運用上ほとんど同一であり,一般社会通念でも峻別されなくなる。国風文化が盛んになり,中世の国家主義的大義名分論がおこると,排外的な意味もこめて,外を夷狄と呼ぶようになる。元寇の経験は,いっそうこの思想を形あるものにした。一方国内的にも,無道者・非文化人に対する蔑称として,夷狄・えびすの語が用いられる。たとえば,『平家物語』では「入道死去」の段で,都の殿上人たる平家一門の中央意識から,源氏に呼応して立ち上がり反平氏に転じた諸国の勢力を「夷狄の蜂起」と表現している。この夷狄は,同じ段に「四夷」としているものと同義である。近世の文学においても,芭蕉は『笈の小文』で〈像花にあらざる時は夷狄にひとし〉,古川古松軒は『東遊雑記』で,出羽北部などを通るさい〈無礼の体,夷狄も風かくやあらん〉と記しているのは,文化の低い野蛮粗野に関しての表現にほかならない。安藤昌益が『統道真伝』の中で「東夷国」「夷人」と北海道やアイヌ人を表現し,「北狄国」として北方アジアの地を表現しているのは,古典的方角観よりは,文化性にもとづく呼称と考えられる。近世社会の「法世」を否定し,「自然世」に近いとして好感をもったと認められるアイヌ社会に対して,彼さえもなお,夷と表現するところに注目される。幕末にいたって,開国策に対して攘夷論が唱えられ,実際にその行動がとられるのも,この夷狄思想が排外的に働いたものである。さらにいえば,第二次世界大戦期の国粋主義にも,その系譜的影響は伝わっていたともいえる。
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