●一遍 いっぺん
アジア 日本 AD1239 鎌倉時代
1239〜89(延応1〜正応2)一遍は1239年(延応1),伊予国(愛媛県)に河野七郎通広の次男として誕生した。10歳のとき,母と死別したのを契機に天台宗継教寺に入り出家し,幼名松寿丸を随縁と改名した。当時河野家は,承久の変(1221,承久3)のおり後鳥羽上皇方についたため所領を奪われ,一族は離散し,没落していた。そのため父通広も出家して,道後(松山市)宝厳寺に隠棲していたといわれる。その後一遍は九州大宰府の西山証空(1176,安元2〜1247,宝治1)の門下である聖達を訪れ,一時は聖達の法兄である肥前清水のもとで浄土教を学び,再び聖達のもとに帰り研修したが,1263年(弘長3)父の死によって伊予に帰った。1271年(文永8)信州善光寺に詣で,参籠して感得した二河白道(浄土信仰上の比喩の1種)を図画し,それを前にして窪寺(伊予)の山中に設けた庵室で3年間称名念仏をつづげたのである。そのことによって10劫という昔,衆生を救済しようとして成道した弥陀の正覚も,極楽往生を願う衆生の一念も差別はないとし,ただひたすら名号にすがる一念によって,衆生は現身のまま弥陀の浄土に生まれ,弥陀とともに坐することができるという信念を獲得したのである。その後,四天王寺から高野山をへて,1274年(文永11),熊野権現証誠殿において,南無阿弥陀仏とただ1度唱えるだけで極楽浄土に往生できるという六十万人頌を感得し,名を一遍と改め「南無阿弥陀仏・決定往生六十万人」と記した紙札を民衆に配札しながら全国を遊行したのである。この年をもって時宗では開宗の年としている。一遍が名号札を配札(賦算)するのは,名号は阿弥陀仏に等しいものであり,仏体そのものであるとみていたから,念仏の勧進は賦算によって弥陀と縁を結ぶことができるという意味をもっていたのである。賦算の対象は民衆そのものであり,これといったむずかしい哲学や思想ももたなかった民衆に対する布教手段としては,こむずかしい思惟概念に訴える説教よりも適していたのである。名号をいただくことによって極楽往生が決定するとされ,なによりも信不信を選ばず,浄不浄を嫌うことなく,ただ賦算を受けようというところに,衆生に対する他力易行に徹した一遍の布教手段があったのである。また浄土門の概念の遊戯に陥ることをさけようとする一遍は,学問的理解を放棄して念仏行に徹しようと,そのころ,末法濁悪の世に阿弥陀の大悲にあうことのできた喜びを形に表した踊躍念仏を,1279年(弘安2)信州伴野で始めたのである。一遍のすすめた念仏は空也の念仏に影響しているものの,なによりも一念無上の名号であり,一念で足りるものでもなければ,多念を要しなければならないものでもない,一念でも多念でもある念仏,いわば時々刻々を命終時と受け取って唱える念仏であって,そのときのうちに絶対者である阿弥陀仏と対決する念仏であらねばならないとしたのである。それは考える念仏ではなく,直接に体験される念仏であって,当体一念の念仏といわれるゆえんである。一遍は念仏勧進のために,北は奥州から南は薩摩までの各地を,賦算と踊躍念仏を最大の布教手段とし,十二光箱をたずさえ,神祇と結縁しながら遊行の旅にあけくれ,25万1,724人に念仏札を与えたといわれる。1289年(正応2)8月,〈一代聖教皆つきて,南無阿弥陀仏になりはてぬ〉とうたい,自ら所持していた書籍類をすべて焼き捨て,23日,神戸の真光寺で死亡した。〔参考文献〕今井雅晴『時宗成立史の研究』1981,吉川弘文館
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