50音順    検 索

●一地一作人 いっちいちさくにん

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 太閤秀吉は,山崎の合戦によって明智光秀を打ち破って全国征覇への道を歩み出すが,この合戦に勝利した直後の1582年(天正10)からその死没の1598年(慶長3)までのあいだに,日本全土にわたって,世に太閤検地と呼ばれる土地調査を実施した。この太閤検地は,中世社会から近世社会への移行を土地制度の面から確定した,画期的な施策であった。この検地は,耕地を田畑ともに法定米収穫高に換算して石高(こくだか)に結び,大名・家臣に与える封土(ほうど)を算定する基準とし,また農民からは現物の貢租を封建地代(ほうけんちだい)として,とりたて基準をもつくりだした。この検地直前の日本の農村では,一筆の耕地に地主と小作人がいて,複雑な土地所有関係を結んでいる場合が多かったが,太閤検地は,一つの土地には一人の耕作者という原則(一地一作人)のもとに,多くの場合,小作人に年貢負担を義務づけ,耕地を保有する権利を与えた。