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●一向宗 いつこうしゅう

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 浄土真宗に与えられたほかからの別称。一心一向(ただひたすら)に阿弥陀仏にのみ帰依してほかの仏神を捨てて顧みないところから,この名がおこったとみえる。蓮如の『帖外御文章』の1473年(文明5)9月の文に〈あながちに当流をわが家より一向宗となづくる事はなきなり。ことに祖師聖人は浄土真宗とこそさだめられたり。おほよす経文をみるに,すでに「一向専念無量寿仏」とときたまへり。この文によるに,一向にもはら無量寿仏を念ずといへるこゝろによりてみな人こぞりて一向宗といへる歟。そのときは子細もなくきこえたり。しかりといへども,開山においてはこの宗をば浄土真宗とこそおほせられたり。されば一向宗といへる名言は本宗よりさだめざるなり〉といい,また別に〈他宗の人の一向宗といふことは是非なし。当流のなかにわれとなのりて一向宗といふことはおほきなるあやまりなり〉ともいっていることに知られる。また他宗からこの名で呼ばれた事実は『大乗院寺社雑事記』1474年(文明6)10月11日の条に〈加賀国一向宗土民,無碍光宗と号す〉に知られる。しかし一向宗の称はもと一向衆と号する衆団の名から転じておこったとすれば,すでに13世紀末,諸国を遊行していた念仏の徒に始まる。それが直ちに一遍の時衆の徒と見ることはできないが,のちに時衆に組みこまれた一向俊聖の流れといわれる。その流れは1304年(嘉元2),鎌倉幕府によって禁制されたもので,この一向衆との混同を恐れて真宗側では幕府に働きかけ安堵状を得ているが,なおのちにも問題を残していたことは,1321年(元亨l)の第3世覚如の愁申状の提出ともなったことが語っている。真宗が混同を恐れた一向衆について『天狗草紙』には〈一向衆といひて弥陀如来の外の余仏に帰依する人をにくみ,神明に参詣するものをそねむ〉といい,余行余宗を嫌い,姿は僧形にして袈裟を着ず,念仏するときは野馬のごとくおどり,山猿のごとく騒がしく,男女の根を隠すことなく,食物をつかみ食い,さながら畜生道の業因に等しいなどと説いている。かなりの誇張があろうが,このような一向衆が北陸に広まり,ときを等しくして真宗も北陸に進出し,蓮如が1471年(文明3),加賀吉崎に道場をかまえるにいたって,一向衆と真宗との混合がおこったとみえる。一向に阿弥陀仏に帰依する姿勢は同じであったことから,真宗のなかに一向衆が吸収されるようになって,真宗のなかの一向衆があるいは一向宗と名のることもおこってきたのではないかと推察される。吉崎における蓮如の民衆に及ぼした影響は多大で,のちの一向一揆の土台をつくっているから,一向宗の名も吸収された一向衆の徒の発言とみることは可能である。しかし蓮如がこれを嫌ったのは,宗祖のことばもあろうが,やはり一向衆との混同を恐れたためであろう。それでも一向宗の名はいつのまにか真宗に対する呼称となって定着する。『二水記』に1533年(天文2)8月7日,一向宗が法華宗に対抗して,10日〈堺合戦は多分に一向宗敗軍す〉と記しているし,江戸時代に入って,新井白石は『折たく柴の記』に越後国村上の領85カ村の濫訴に触れ,〈或説に一向宗の僧を大将となして軍の用意すなど聞ゆ,などもいふ〉とあるなどはその例である。真宗が一向宗をはじめ無碍光宗門徒宗,あるいは本願寺門徒などさまざまに呼ばれることをこころよしとしないで,浄土真宗を公称したい意向が幕府に伝えられたのは1773年(安永2)で,この結果,浄土宗とのあいだに宗名論争を生じているが,浄土真宗の宗名が定まったのは1872年(明治5)である。

〔参考文献〕『アジア仏教史・日本編VI−室町仏教』1972,佼正出版社

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