●一向一揆 いっこういっき
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一向宗は,親鸞(しんらん)が創始したが,単に“しんしゅう”ともいう。一向一心に阿弥陀仏を念ずるところから,一向宗と呼ばれる浄土真宗の異称である。一揆は,代官・守護勢力など時の支配者に抵抗した近世農民の集団的暴動であって,武装蜂起にまで発展した反抗運動である。その性格によって一向一揆のほかに,土(つち)一揆・国(くに)一揆・徳政(とくせい)一揆,近世においては,百姓一揆がとくに有名である。北陸・東海・近畿各地で,室町後半におこった仏教一向宗(浄土真宗)信者の一揆を一向一揆という。簡単な宗教闘争ではなく,国一揆(応仁の乱ごろから,農村土着の国衆・国人(こくじん)などが,守護大名と戦った),土一揆(どいっき)ともいい,農村の有力地主がその中心となって蜂起して戦った一揆)など,室町後半当時の世間の風潮が表面化した一揆であって,戦国大名や守護大名に反抗する強力な一大社会勢力であった。一向宗は,本願寺の8代法主(ほっす)であった有名な蓮如(れんにょ)らの努力で,15世紀以後,とくに北陸と東海および近畿地方の農村を中心にその勢力を拡大した。一向門徒(もんと,すなわち信者)は,しばらくすると,これらの地方において,まるで大地に水がしみこむようにその勢力を,浸透させた。まもなく講(こう,すなわち信仰上の集会)を基礎として,実に強大な組織を誇るまでに成長をとげた。必然的に搾取に狂奔する支配層に反抗する段階から,対立する程度にまで成長していった。応仁の乱(1467・応仁1)は,東軍の細川勝元と西軍の山名宗全とが,前後11年(1467〜77・応仁l〜文明9),足利将軍家の相続問題を原因として,京都を中心にして,これら東西の大軍が激突した大乱であった。京都はもちろんのこと,その郊外にいたるまで,この応仁の乱の戦場と化し,内裏はいうまでもなく,京都の大小の邸宅を手初めとして,京都の美は戦火の犠牲となった。これからのちは,室町幕府の威令は,ついに地に落ち,やがて日本全国において,さまざまな群雄が割拠するという異例の事態を招来するとともに,戦国時代を導いた。この後は,いわゆる下剋上の勢力はいっそう激化し,一方では今まで支配階級から弾圧され,頭を抑えられていた,いわゆる門徒農民の一揆も,まるでセキを切ったように,しだいにその活動が活発となっていったのも,この時代の一つの注目すべき風潮であるということができる。一向一揆は,はじめのうちは,地方土着の武士や土豪を意味する“国人”に反抗するとともに対抗する運動を展開していった。一方,国人の一向一揆に対する態度はどうだったかというと,これがおもしろいことには,目先の利いた国人の一部は,自分の力だけでは宗教的信念に裏づけされた,死を恐れない一向一揆を単なる力で抑えることは難しいと悟った。そこでまず最初は試験的に門徒と妥協して,この難局を乗りきろうと試みたが,そのうちミイラとりがミイラとなり,国人の一部は進んで門徒に参加するとともに,従来の守護大名らに取って代わるために,一向一揆の強力な組織と勢力を利用しようと試みる野心家まで生まれてきた。こうして一向一揆は,しだいに,領国の支配権の争奪戦の様相を示しはじめたのである。一向宗の盛んであった越中(富山県)・加賀(石川県)・越前(福井県)・三河(愛知県)・紀伊(和歌山県)などで,当然のことながら,一向一揆はしばしばおこり,特筆すべき事件として,加賀の強力な一向一揆がある。1488年(長享2)守護大名だった有名な富樫政親(とがしまさちか)の軍勢を打ち破って,富樫を敗死させるほどの猛威をふるった。それからのち,100年近くの長い期間にわたって,一向一揆の門徒による加賀の領国支配が永続したので,人々はこれを〈百姓のモチタル国〉といって驚くとともに,周囲の支配階級からは恐れられたという。ここで注目すべきことは,一向一揆は,農村における宗教的な組織が,国人層や農民層の,現状打破のための闘争に利用された傾向が強くみられるのであって,一向宗の教えがストレートに一揆の思想的なバックボーンとなったと単純に考えることはできないということである。すなわち本願寺は,最初のうちは,門徒の一揆を厳重に禁止していた。蓮如の本拠だった越前の吉崎御坊(よしざきごぼう)は,守護朝倉氏に責任を問われて1506年(永正3)に破壊されてしまった。
【石山合戦と一向一揆の終末】織田信長と大坂石山の本願寺とのあいだで1570〜80年(元亀1〜天正8)の11年間もの長いあいだ,激しい戦いが行われた。真宗の成長と発展につれて,15世紀の中ごろから,一向一揆が各地で頻発したが,これらの一向一揆と本願寺は関係を保ちながら,だんだんと強力な一大勢力へと発展し,やがてはいわゆる本願寺王国を形成していった。日本全国の統一を志した信長は,近畿へ軍を進め,本願寺は全国の門徒に指令を発してこれを動員し,また反信長の諸大名とも連絡を緊密にし,信長と激しく争った。織田信長は,伊勢(三重県)の長島をはじめ,越前・加賀・紀伊の門徒たちを次々に打ちくずし,本願寺の経済的・軍事的背景を崩壊させるようつとめた。本願寺は,信長の執拗な包囲攻撃に切りくずされていき,ついに朝廷に仲介を依頼した信長と講和し,開城し,顕如(けんにょ)は紀伊へ退却して行った。このようにして約1世紀以上にわたって各地で発生した一向一揆は,だんだんと終わりをつげ,最初の念願であった信長の畿内平定もようやく実現することになった。
【史料からみる加賀の一向一揆】〈加賀国一向宗土民,(1474・文明6,11月l日)侍分と確執す。(加賀の国の一向宗を信ずる土民が,武士たちと争いをおこす。)侍分悉く以て土民方より,国中を払はる,守護代侍方に合力(ごうりき,加勢)するの間,守護代こすぎ(小杉氏)打たれ了(おわ)んぬ。一向宗方二千人計り打たれ了んぬ,国中焼け失せ了んぬ〉(『大乗院寺社雑事記』)〈今月五日(1488・長享2,6月25日)越前府中に行く。其以前越前合力勢(ごうりきぜい,将軍義尚の命令で,富樫救援に赴いた隣国越前の守護,朝倉敏景の軍)賀州に赴く。然(しかり)と雖(いえど)も,一揆衆二十万人,富樫城(富樫の居城,石河郡高尾城)を取囘(とりま)く。故を以て,同九日城を攻落させる。皆生害(しょうがい)す。(皆,殺害した。)而(しか)るに富樫一家の者一人(富樫泰向)を名目上の加賀守護とした。……百姓とり立て富樫にて候間,百姓のうちつよく成(なり)て近年百姓のもちたる国のようになり……〉(同)このように,加賀でおこった一向一揆は1世紀も持続した。これは,加賀の門徒国人衆が,富樫氏の戦国大名化を,なんとかして阻止しようとして,広大な農民による連合戦線を組織することに見事に成功したのであったが,やがて全国的な封建統一権力の確立の前に,もろくもついえ去っていったことを,歴史は物語っている。このほか,これら史料をよく読んでみて,旧勢力側が,一向一揆に対して,どのような感想をもらし,どんな行動をとったかも,この史料から掘りおこすことができよう。
【石山本願寺と一向一揆】中国経営の必要から,織田信長は大坂を軍事的・政治的の拠点としようと思い,この地に城を築こうとし,1570年(元亀1)に石山本願寺の顕如に対して,寺を移すよう頼んで拒絶された。前後11年間の戦いの後,1580年(天正8)信長は正親町天皇に奏請し,勅命が下って和議が同年閨(うるう)3月に成立した。顕如は4月に石山本願寺から退寺していった。顕如の子の教如はその後も戦いをつづけたが,7月末に敗れて石山寺から退いた。
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