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●一揆 いっき

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 一揆のことばの意味は,考え方や行動をともにする,ということで,同義の語としては,一致・一味・同心・一同などがあげられる。しかし歴史用語として見た場合には,中世〜近世および明治初年に,土豪武士や農民が,上級権力者に対抗するために団結してつくった組織体を指す。

【一揆のさまざま】平安末から鎌倉時代において,荘園村落の農民が,“一味神水”の儀式によって団結を固め,荘園領主・在地領主に訴状(申状)を提出し,要求が受け容れられないときには逃散などを行ったが,これが農民の一揆のはじめといえる。南北朝時代から戦国時代にかけては,社会の各階層のあいだでさまざまな一揆結合が行われた。地方の中小武士層は国人一揆と呼ばれる地域的戦闘集団をつくって強大な守護大名に対抗しようとしたし,幾内の土豪・名主層は,幕府や荘園領主に対して土一揆をおこして諸要求をつきつけた。浄土真宗本願寺派の門徒である国人・土豪・百姓らが一向一揆を結び,戦国大名と対抗するほどの勢力をもったこともある。このように中世後期には,社会の各階層のなかに一揆が組織されたのであったが,幕藩体制の確立した江戸時代に入ると,一揆は百姓一揆(農民一揆)だけとなる。明治維新後においても,新政府の政策に反対する地租改正反対一揆や徴兵反対一揆も起こったが,1877年(明治10)西南の役を境にして百姓一揆は消滅した。

【中世の一揆の結合】南北朝時代から戦国時代にいたる中世後期は,「一揆の時代」といわれるほど,社会各層のあいだに一揆結合が盛んにみられたが,それは“一味神水”という行為によって結ばれたのであった。それは,志を同じくする者一同が,一致して行動する旨の起請文を記し,参加者全員が署名印判をした後,その起請文を焼いた灰を水に入れ,その水,つまり神水を一同が分ち飲むことである。こうして在地の領主のあいだにも,その下の百姓のあいだにもさまざまな一揆が結ばれた。在地領主の一揆についてみると,それは守護大名や有力武士とは区別される群小領主層の結集体という性格をもっており,東国の鎌倉公方の下にあった白旗一揆,美濃の守護土岐氏の下にあった桔梗一揆,伊賀の伊勢の守護に木義長の下にあった桐一揆などがその例である。その結合の規模や性格によって[1]合戦のために一時的に結合したもの,[2]一族が団結した強固な集団,[3]在地領主が地縁結合体として恒常的に団結しているもの[4]一国規模の国人が結集した大規模な“惣国一揆”に当るもの,などの諸形態がみられた。

【国一揆と一向一揆】前記のように群小の領主層である国人層が,政治的強大化をめざしたり,戦闘集団として結集したものを国一揆とよび,1485年(文明17)から8年間,山城国(京都府)を自分たちの手で治めた山城国一揆は有名である。国一揆と性格は同じであるが,一向宗の門徒が結集したものを一向一揆という。1487年(長享1)からおよそ100年間,加賀国(石川県)を自分たちの手で治めた加賀の一向一揆は有名である。その後一向宗の本山である石山本願寺を中心に,伊勢(三重県)の長島や三河(愛知県)にも一向一揆が勢力をもったが,織田信長や徳川家康に平定された。

土一揆土一揆は,農民・土豪らが,幕府や荘園領主に対して,年貢減免や徳政令発布を要求しておこした一揆である。1428年(正長1)の山城国におこった土一揆が,大規模なものの最初であって,以後応仁の乱の時期にかけてが最盛期となる。土一揆のなかで,要求内容として徳政令発布を掲げたものを徳政一揆といい,おこした主体が馬借(ばしゃく)であったものを馬借一揆と呼んである。土一揆の発生地は,大和・山城を中心とした近畿地方に集中していた。

百姓一揆】江戸時代に入っての一揆は,百姓一揆(農民一揆)に限定される。幕藩体制が確立すると,農民に限らず,武士でも町人でも,一味徒党を組むことは厳禁された。そのなかで法を犯して農民が一揆をおこしたのが百姓一揆となるわけである。百姓一揆の形態としては,蜂起・逃散・越訴(おっそ)・愁訴強訴・打ちこわしの六つが挙げられる。しかしこの百姓一揆の形態分類については,異説もあって,いまだ必ずしも学界の共通理解を得られたものはないといった方がよかろう。たとえば青木虹二『百姓一揆総合年表』(三一書房)では,蜂起・強訴・打ちこわし・越訴愁訴・逃散・不穏の7形態を主軸にしながらも,そのほかに,張訴,箱訴,捨訴なども混入させていたのであった。ところが同じ青木虹二が『編年百姓一揆史料集成』(三一書房)のなかでは,前説を翻えして,蜂起・逃散・越訴愁訴強訴・打ちこわしの6形態に限定したのである。今のところ,青木のこの6形態分類が最も有力なものだということである。この6形態のそれぞれについては農民一揆の項に記されている。そのほかに,おこった百姓一揆の組織・規模・性格によっての分類もある。以下それについて記す。

【初期土豪一揆】江戸初期の,幕藩体制確立の過程で,新しく乗り込んできた領主の支配に反抗して,在地の土豪がおこした一揆をいう。まだ安定しない混乱期に,あわよくば自らが領主たらんことをめざしておこしたものであるし,新領主の権力の強大さは承知のうえで,それに一矢報いて既得権を確保しようと意図しておこしたものであった。したがって,中世にみられた国一揆と性格的類以性がみられる。一揆をおこした主体である土豪は,兵農分離後の身分からいえば百姓であるが,実質は土豪武士で,その下に多数の支配農民を抱えていたのである。領主権力と対抗したことから,その一揆は多く蜂起に形態分類されるものであった。

惣百姓一揆】村落内の農民諸階層が,すべて出動した一揆という意味である。江戸時代の村落には,庄屋(名主)・組頭・百姓代(長百姓)の村役人層と,自作農を中心とする一般の平百姓,自小作以下の小前百姓,土地をもたない水呑と,幾階層にも分かれて農民が存在したものであるが,それらの農民が総(惣)動員された一揆ということである。指導者は当然のことながら村役人層がこれに当ったが,近隣諸村との共闘組織もつくりやすいので,規模も大きくなり,したがって城下に整然と押し出して強訴をする,という形が多かった。

全藩一揆】一つの藩領の全域から,百姓が出動参加した一揆のことである。このような大規模な一揆を組織することができるためには,各村々の惣百姓が参加しなければ不可能なことから,全藩一揆の内部組織をみれば,それは多く惣百姓一揆となっている。したがって,惣百姓一揆全藩一揆という場合が多く,全藩惣百姓一揆という呼称を用いられる。全藩惣百姓一揆が,さらにその規模が大きくなり,複数の藩領,または藩領と幕領の農民が連携をもって一挙におこした一揆は,幕藩惣百姓一揆と呼ぶことがある。

【世直し一揆】一揆の性格が,封建支配体制の本質的な都分を否定し,農民にとって望ましい新しい世のなかの実現をめざして行われたものをいう。村役人の選挙制,土地の再分配,年貢の大幅な削減や,村入用の拒否,農産物の自由販売,というような,領主支配の本質にかかわり,絶対認めるはずのない内容を要求し,実力行使によってそれを獲得しようとしたものである。形態からみれば大規模な打ちこわし,ないしは蜂起の形をとっている。この世直し一揆の本質が,請願とは異なるので,百姓一揆と同列に置くのは適当ではないとし,範疇(はんちゅう)を別にすべきだとの意見もあるが,初期土豪一揆百姓一揆に入れて考えるのと同様に,被支配階級である農民が,支配階級もしくはその同類に反抗したり攻撃をかけたという共通性において,百姓一揆に含めて考えてよいと思われる。

〔参考文献〕勝俣鎮夫『一揆』1982,岩波新書194

青木美智男ほか『一揆』全5巻,1981,東京大学出版会

横山十四男『百姓一揆義民伝承』1977,教育社歴史新書85

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