●市場 いちば(しじょう)
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市は,比較的小さな市場圏を表すときに使われる。売手と買手が特定の商品を規則的に取引する場所という意味では,市場も市と異ならない。しかし国内市場・国際市場という場合には抽象概念となる。ここでは明治維新以降,国際取引に進出した太平洋戦争後の現在までみよう。【明治の米穀市場】倒幕により江戸地回り経済圏という幕府構想は,明治政府の首都圏市場育成策に引継がれたといえよう。さて明治維新によって,大坂二十四組問屋・江戸十組問屋は解散した。しかし,問屋・仲介人は流通界に君臨していた。それは,幕藩体制が幕府の政策もあって細かな専門商人を多数輩出させていたことからもきていた。東京の米穀市場についてみると,旧幕時代からの定期米売買は,明治初年,[1]東京商社および東京米市場(日本橋区小網町)に引継がれた。1874年には,[2]中外商行会社(同蛎殻町)もおこり米売買を行った。1876年米商会所条例の発布で,同年10月,東京兜町米商会所(同兜町)・東京蛎殻町米商会所が[1]および[2]の後身として設立された。両社は競合しては不利なので合併して1883年7月,東京米会社(資本金10万円・1893年3月株式組織)となった。東西の取引所では,東京米穀商品取引所と大阪堂島米穀取引所がおもなものである。
【卸売市場−−魚市場】東京を取り上げる。1884年12月,日本橋魚鳥市場は日本橋魚問屋組合に改組されたが,これは農商務省および東京府の布達によるものであった。市場組合は,本船町芝河岸組など10組に便宜上分けられた。1886年11月,府の魚鳥市場例規が廃され,警視庁が衛生上・交通上関係が深くなった食品市場を監督することとなった。日清戦争後は市況が活発となり,交通の発達は遠距離輸送を可能とした反面,荷出しは各問屋に分荷して競争させるようになったので,問屋で直接販売する者が多くなった。そのため仲買へ問屋からの魚荷が渡らず,仲買は問屋兼業となって直接荷受けする始末で,問屋は増加して600戸・仲買も200戸を数え,市場は手狭となった。こうして,関東大震災をへて初めて築地への移転が実現したのである。なお,目露戦争直前の日本橋魚河岸は朝市・タ市(暑中のみ)があり,午前3〜4時に大森羽田付近の魚が入荷し,それから各地の魚が入荷し,5時から売買が行われ買出人に売り,9時には終わる。
【同青果市場】1877年6月,東京府は規則を制定したが,その際16カ所が許可された。最大の青果市場である神田市場は5カ町の問屋が全部合同したもので,1901年には5カ町の青果物問屋240戸・乾物屋37戸・荒物問屋23戸・荷車問屋47戸・飲食店12戸からなる一大区域となった。なお,東京の16カ所の青果市場のうち有力であったのは旧幕時代からのつながりが深い10カ所である。多町(神田)・太根河岸(京橋)・浜町(両国のそば)・赤羽橋(芝)・青山(赤坂)・四ッ目・一ッ目・瓦町・竹町(本所)・駒込(本郷)であった。このうち駒込青果市場は16世紀末の創立で,24戸の問屋が集まって組織したものである。蔬菜(そさい)が1934年現在70%,あとは果実であり,旅荷と近在荷からなり,近在荷は個人出荷が70%,あとは共同出荷であった。取引方法は「相対取引」が原則だが,蔬菜の一部にセリも行われ,開市時間は午前6時より正午までであった。
【小売市場】小売市場(いちば)設立の契機は,1918年(大正7)7〜9月の米騒動であり,東京についてみると東京府は市と協力して白米の安売りを始めた。それが東京市設市場で,「公設」と慣習的に呼ばれていたが,これは東京市商工課が市場の設備を提供し,希望する商人に営業させるものである。商人は市場維持費を負担する一方,東京市指定の価格をもって販売する義務を負うシステムであった。ただし市の指定価格が余りに安い場合,商人は品質を落とすことがあった。1919年には3カ所,関東大震災直前11カ所,震災の1923年中に30カ所となった。つぎに財団法人東京府市場協会経営小売市場は,米騒動の年の12月,7カ所の小売市場を急設し,木炭を売り出したのがきっかけで,東京日用品市場協会と成立時呼ばれ,のち改称され理事長に東京府内務部長が就任したが,純然たる私設市場である。しかし,震災前に米・みそ・しょうゆ・薪炭を直売し,震災後は乾物・雑殻も協会直営とし,その他の商品は公設市場同様,一般商人に販売を許すが公正な標準価格が指定された。公設より営利的ではあるが,一般商人より競争力が高いため市場付近の小売相場の標準店となることが容易であったといわれる。第3の小売市場は,私設市場で「公設」や「協会市場」以外の市場である。こうして小売市場は米騒動を契機に日用品安定を狙って設けられた。天皇の下賜金や市内有力者の寄付金が,これら小売市場に流用されたとはいえ,生活難を少しでも緩和させるという社会政策的施設が常設され,マーケットとなった。
【投資と証券取引所】わが国で最初に取引所ができたのは,堂島の帳合米(ちょうあいまい)市場で,1730年(享保15)のことであった。帳合米取引とは,セリで値段と取引量を決め,米の受渡しは期日まで延ばし,空売と空買による差金決済を建前とし,1945年の敗戦直前まで日本の株式取引の独特な売買方法として採用されてきた。1878年,東京と大阪に株式取引所が発足した。明治政府が発行した多額の国債の売買が円滑に行われることを期待したことが設立の動機で,その後,横浜・神戸・京都・名古屋など次々と設立された。1899年には証券市場は42,米穀市場は94あったが,1916年現在,おのおの10,39カ所に減った。ただし,東京の「兜町」と大阪の「北浜」が有価証券の中心的存在であった。株式市場への投機は,第一次世界大戦開戦後の1915〜17年に最高潮となる。まず船不足から船舶・原料仕入・綿工業へと飛火し,鈴木商店は鉄の思惑買いで数千万円の巨利を博し,「船成金」も出現,東京株式年出来高は1914〜21年に,927〜4,886万株に達した。しかし,第一次世界大戦後恐慌,金融恐慌・昭和恐慌による大暴落にもあうのである。すなわち1929年10月24日,「暗黒の木曜日」といわれたニューヨーク=ウォール街でおこった株式の大暴落ではl日1,400万株が売買され,24日1日だけで100億ドルが消し飛んだといわれる。この世界恐慌は金解禁の打撃で基礎が弱まっていた日本では,1930年9〜10月に恐怖相場というべき株式大暴落をもたらした。すなわち,同年l月の株価に対する暴落率は東京株式取引所株の18%に対し,事業株の多くは50〜60%という暴落で,南満州鉄道株のような準社債株でも32%・東京電灯では64%の下落を示した。この暴落は,国際商品市場の相場が1931年より悪化するのに対し,わが国はその前の1930年6月で最悪状態という国際経済とのズレを示している。それは米価,とくに生糸相場が34年ぶりの安値を示すなど1930年10月中に,1930〜31年恐慌中の最低を画している日本に特有な国内事情からきていた。
【証券市場の民主化】日本証券取引所の東京など11カ所の市場は,1945年8月10目,立会を停止したまま敗戦を迎えた。占領軍は,[1]各取引を順序に従い,時間的に記録する,[2]上場銘柄は取引所で,[3]先物取引(将来一定の時期に受け渡すべき条件で,売買契約を行う取引)の禁止を示した。そこで1947年3月,証券取引法が成立し,1949年5月,東京・大阪・名古屋各取引所が再開され,1950年までに京都など6カ所も開始された。こうして,わが国の取引所が思惑による利潤追求に終始した点が改められ,実物取引が増え,産業界から遊離していた点も改められた。証券取引法は数次にわたり改正が行われたが,証券民主化の観点から,証券業者の名称が「証券会社」となり,証券業務の種類に応じて免許が必要となり,最低資本額の引上げなどで一般投資家も加わり,銀行・信託・生命保険との結びつきも増えた。
〔参考文献〕『東京百年史』第3巻,1972,東京都
生形要『兜町百年』1967,東洋経済新報社
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