●一田両主制 いちでんりょうしゅせい
アジア 中華人民共和国 AD
中国にみられた1田の二重所有関係の慣行。これまで1田に対して存在していた地主一人の所有権が、上層(田面)と下層(田底)とにわかれて、それぞれ別の人によって所有されるという権利関係を示したもの。資料により、田面は「面田」、田底は「底田」と記載される。一田両主制は、明・清代に江南から華南にわたる水田地帯に行われるようになり、19世紀後期から中華民国時代にかけて盛行し、人民共和国の成立によって終わったものである。
【田面権と田底権】1882年(光緒8)刊行の『周荘鎮志』巻4・風俗には〈俗に田底・田面の称あり、田面は佃農(小作人)の有するところ、田主(地主)はただ田底を有するのみ。けだし、佃農とともにおのおのその半ばを有す。ゆえに田主かわるといえども佃農はかわらず。佃農あるいはかわりても田主またあずからず〉とある。また『民商事習慣調査報告録』318ページの「田、面と底に分る」に1918年(民国7)の報告が載せられている。それには「江蘇省の各県で田を売買するとき、面田と底田をわけるものがある。面田は佃戸の所有であり、底田は地主の所有である。面田と底田は、佃戸と地主がおのおの別に売りに出し、あるいは質入れすることができる。このような慣習のおこりを調べると、「佃戸がその田に対して開墾したり、その土地を肥沃にするため資財・労力を投下し、また土地改良などをした功労によって、田面の利を受けるようになったのである」と述べられている。地主の所有権が田面と田底とに分かれ、田面は小作人が、田底は地主が所有し、それぞれ他に掣肘されることなく、独自に自由に処分する権利をもつようになった。なお田面と田底の名称は地域によっていろいろあってあげきれない。一例を記すと、江西では皮田と骨田、皮業と骨業、大業と小業、浙江では小租と大租、客田と主田、上皮と下皮、福建では田皮と田骨、皮田と田根、小苗と大苗、広東では質田と糧田、などである。日本では普通、上地と底地といっている。田面・田底の所有者は権利をもつ反面に義務もある。田底権の所有者である地主は、小作料を徴収する権利(収租権)と田底処分権があるが、税を納める義務がある。田面権所有者である小作人は、無期限の耕作権(永代耕作権)と収益権があり、田面を処分する権利をもつ。その反面、年ごとに小作料を地主に支払う義務がある。この義務を怠り、滞納額が田面価に達すると、地主によって一方的に田面権は吸収され、強制的に小作権が撤回されるのが普通であった。
【一田両主の成立過程】成立の原因・過程は地域によっていろいろあり、[1]小作人が地主の土地を開墾したことによるもの、[2]小作人の土地改良によるもの、[3]小作人があらかじめ納めた保証金によるもの、[4]地主が田面権だけ、または田底権だけを保留して、田底権または田面権を売却したり、譲渡したことによるもの、[5]財産相続の場合、田面と田底を分割する、などといろいろある。しかし、最も多いものは、小作人が地主の土地を開墾・土質改良・水利などの土地改良のために、労働・費用を投じたことによって永代耕作権をもち、この権利を相続・譲渡・売却・入質・抵当など処分が可能となって田面権といわれるようになったことによるものであろう。また、地主・小作人がおのおの所有する田底権・田面権を分割して委譲したり、売却することも行われ、1田所有権がさらに細分化され、1田3主ないし1田数主となることもあった。中国の一田両主制においては、地主と小作人との関係が身分的な支配・被支配の関係から解放されていることが特徴である。ヨーロッパ中世の分割所有権、日本の土佐・阿波などで江戸時代から行われた上地・底地の制度は、一つの土地に二つの所有権が並存する点では、中国の一田両主に似ているが、封建的支配・被支配関係から脱却しない点は中国と異なる。
〔参考文献〕仁井田陞「支那近世の一田両主慣行と其の成立」法学協会雑誌64−3・4、1944
藤井宏「一田両主制の基本構造」近代中国5−8、1977〜1980