●一条鞭法 いちじょうべんぽう
アジア 中華人民共和国 AD
中国,明代後期から清初にかけて行われた税法。税と徭役(ようえき)の項目を一つにまとめて,丁・田(もしくは糧)にかけて徴収する法,単に条鞭ともいう。【一条鞭法成立の過程】明代初期の税・役法は,元末争乱のため疲弊した社会の経済に立って,米・麦などを納める両税法と労働を直接提供する役法であった。しかし,この税・役法は複雑な課税率,雑多な項目,煩わしい徴税法のため,これを悪用して税・役を逃れるための不正手段が横行し,課税が不公平になるなどの弊害が多かった。そして年月の経過とともに,経済の発展・商業の盛行・通貨としての銀の流通により,税・役を銀で代納することが増加するようになった。明代中期から行われた税・役の改革は,税・役を銀納することを前提として,税・役法の複雑な税率,雑多な項目などの課徴法を改めていったことである。改革は地方官によってすすめられ,嘉靖(1522〜66)のころから著しくなった。これら改革の動向の一つは,役の課派対象が戸(家)から,丁・田(もしくは糧)ヘ移行したことである。もともと役を負担するものは人丁であったが,役を課派する対象は戸であった。戸の人丁・財産などを総合評価してつくられた三等九則の戸の等級にもとづいて,役を戸にわりあてた。戸等をきめるに当たって,種々の不正が介入し弊害が多かったので,華中・華南では財産のうち田を重視し,役のわりあては,しだいに戸を離れて,丁・田(糧)に移るようになり,課役の基準が簡単になった。第2の動向は税率の簡素化であった。課税の際,種々の不正行為,吏胥の奸詐がはなはだしかったのは,一つには税率の複雑なことにあったので,その簡素化がすすめられ,しだいに一則化に近づいていった。第3の動向は,役を課し提供させる単位が里甲から州・県に移るようになったことである。歳月の経過により,里甲間にも経済力の差が生じ,富裕の里と貧窮の里ができ,里甲を課役の単位とすることは不公平・不合理となったので,州・県を課派の単位とし,しかも毎年課徴するようになった。これらの動向・方法をもつ改革が各地の地方官によって施行されていくうち,税・役内の項目を合わせて徴収する簡便な方法がとられるようになり,多くの項目を合わせて一綱にして徴収する一条鞭法が形成されて,これによって煩雑といわれた税・役法も,課徴納税の事務も簡単になった。
【一条鞭法についての解釈】一条鞭法は,16世紀中ごろから17世紀初めにかけて,各地の地方官によって施行された税・役の諸改革の経過のなかに形成されていった。したがって,後世条鞭の名が普及するに伴って,この時期の税・役改革には,あとから条鞭の名称もつけられたのであろう。条鞭と呼ばれる税法の内容もいろいろある。税・役のなかの一部分の項目の合併徴収にも,あるいは税または役のそれぞれの一条化にも,税と役の項目の合併一条化も条鞭の名をつけている。このように条鞭に対する解釈もさまざまであったが,最も多く用いられている解釈は,役の項目を一括し,その諸費用を丁・田(糧)に課派徴銀し,これをもって雇役とするもの,すなわち役についての一条化が条鞭である,というものである。これは万暦(1572〜1620)初めごろの条鞭普及時期に施行されたものは,役の一条化が多かったことにもよると思われる。しかし,税・役をそれぞれ一条としたものは両条鞭である,という説もあり,条鞭とは税・役の項目が一つにまとめられたもの,とする解釈もある。『万暦泉州府志』巻6版籍志上・賦役の条に〈けだし賦・役の法は,始めは煩,ついで簡となる。始めはすなわち賦・役分れて二となり,今はすなわち合して一となる〉と述べている。しかし条鞭施行後も,税の一部は現物納として残り,特定の地方から米・麦などが京師に送られ,役でも里甲正役,税の徴収運送に関するものが残存した。
〔参考文献〕岩見宏「山東経会録について」清水泰次博士追悼記念明代史諭叢1962,大安
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