●市川団十郎 いちかわだんじゅうろう
アジア 日本 AD1660 江戸時代
【初代】1660〜1704(万治3〜元禄17)元禄時代の江戸で活躍した歌舞伎俳優。狂言作者を兼ねた。俳名は才牛(さいぎゅう)。作者名として三升屋兵庫(みますやひょうご)の号も用いた。江戸和泉町生まれ。父親は堀越重蔵(十蔵ともいう)。通説では,1673年(延宝1)江戸中村座上演の『四天王稚立(してんのうおさなだち)』の坂田公時の役で,14歳の団十郎が紅と墨で顔を隈(くま)どり,大斧をもって荒々しい立ち回りを演じて好評を博した。これが「荒事(あらごと)」の創始と伝える。初代は芸の幅の広い俳優で,実力をもって名声を獲得した。とくに荒事や神霊事(しんれいごと)に傑出した才能があり,これが江戸人の気風に合致したため格別の人気を集め,江戸随市川と称される市川家の権威を確立した。のちに「歌舞伎十八番」に選ばれた作のうち,『暫(しばらく)』『鳴神』『勧進帳』『不破』などの原型は初代が演じたもののなかにあった。1704年(元禄17)2月,市村座の『わたまし十二段』という狂言に出演中,俳優の生島半六(いくしまはんろく)に刺殺された。享年45歳。法名を門誉入宝覚栄信士という。【9代目】1838〜1903(天保9〜明治36)幕末から明治中期にかけて江戸(東京)の劇界の中心となって活躍した歌舞伎俳優。のちに“劇聖”と称賛された名優だった。7代目市川団十郎の5男。生まれてすぐ河原崎座の座元6代目河原崎権之助の養子になったが,1874年(明治7)実家に復帰し,9代目市川団十郎を襲名した。俳名は三升・団州・寿海など。容貌・風姿・音調・弁舌のいずれにも優れた天性の役者で,立役・女方・敵役を兼ね,時代・世話・所作事の何を演じても至高の技芸を発揮した。明治期に,文明開化・欧化改良の新政府の方針に合わせ,いわゆる演劇改良運動の中心的指導者として活動した。忠実に史実にもとづいた脚色,故実を調べて誤りのない扮装や小道具を用いた「活歴(かつれき)」と呼ぶ史劇の様式を始めた。また,性根(しょうね)を大づかみに把握したうえで形から入って人間を形象化していく江戸時代の歌舞伎の人物創造法とは違い,台本によって人物の性格や心理を研究・把握し,これを内攻的に押えて表現する,「肚芸(はらげい)」と呼ぶ演技術を開拓した。9代目団十郎が歌舞伎の近代化に及ぼした影響はきわめて大きい。自分の主演して創作した作品から,とくに新時代にふさわしいものを選び,「新歌舞伎十八番」を定めた。『高時』『紅葉狩』『大森彦七』『鏡獅子』などが,このなかに含まれている。1903年(明治36)5月,66歳で没した。
〔参考文献〕西山松之助『市川団十郎』1960,吉川弘文館 服部幸雄『市川団十郎』1978,平凡社
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