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●イタリア統一戦争 イタリアとういつせんそう

ヨーロッパ イタリア共和国 AD 

 19世紀イタリアの国家統一と独立の運動であるリソルジメントにおいて3次にわたってオーストリアと戦った戦争。

【第1次,1848〜49年】1848年のウィーンの3月革命のニュースがミラノに入るとミラノ市民はオーストリア軍司令官ラデッキー将軍に対して反乱をおこし,3月18日から「ミラノの5日間」と呼ばれる有名な戦いでオーストリア軍をミラノから撤退させた。サルディニア王国のカルロ=アルベルト王は,オーストリアと戦端を開くときが来たと判断し,3月24日に宣戦布告し,ミラノに兵をすすめた。トスカーナとナポリの政府もサルディニア王国につづいてオーストリアに宣戦布告し,さらに教皇軍も戦いに加わった。イタリア側は緒戦で勝利を収めたもののクストーザの戦いで敗北を喫し,さらにイタリア諸国家の内部分裂が加わったことで,8月9日にオーストリア軍と休戦協定を締結した。翌1849年3月,サルディニア王国でオーストリアとの戦争を再開する気運が強まり,再度戦端が開かれたが,ノバラのわずか3日間の戦いで完敗した。その責任をとって退位したアルベルトに代わって,ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が国王に即位してオーストリアと講和を結んだ。その結果,イタリアは再びオーストリアの支配下に置かれることになった。

【第2次,1859年】1852年11月にサルディニア王国の首相となったカブールは列強の勢力均衡を利用してオーストリアを孤立化させる一方でフランス皇帝ナポレオン3世に接近する方針をとった。クリミア戦争への参加ののち,オーストリアからの独立をめざす戦争の準備を開始し,1858年7月に南フランスのプロンビエールで秘密に会談し,密約を結んだ。フランスとの同盟に成功したカブールは,同年4月にオーストリアに対する第2次独立戦争を開始し,6月にはソルフェリーノの戦いで大勝利を収めた。しかし,北イタリアに強力な王国が形成されるのを恐れたナポレオン3世は,7月に突如として単独でオーストリアとビラフランカの講和を結んだ。カブールはこの講和に反対であったが,国王エマヌエーレ2世がこれを承認したことやフランスの援助なしにはオーストリアと戦えないという判断で,結局その講和を承認して首相を辞任した。この段階で,サルディニア王国はそれまでオーストリア支配下にあったロンバルディア・ベネト地域を併合された。さらに中部イタリアのパルマ・モデナ・トスカーナ大公国などで旧支配階級やオーストリア駐屯軍に対する反乱がおこったのを機会に,住民投票を組織し,翌1860年3月に併合した。ただ,この中部イタリアの併合をフランスに承認させる代償として,1860年1月に首相に返り咲いたカブールはサボイアとニ一スをフランスに譲渡した。イタリア統一の次の段階はシチリアとナポリの併合であった。シチリアではブルボン朝の統治に反対する蜂起がおこり,それを援助するために,1860年5月,ガリバルディは1,089人の義勇兵,別名赤シャツ隊を率いてジェノヴァからシチリアの西端マルサーラに上陸し,短期間でブルボン軍を破ってパレルモに入城し,6月初頭にはほぼ全シチリアを平定した。さらに8月にはメッシーナ海峡を越えて南イタリア本土に上陸し,9月7日にナポリに入城した。ガリバルディは自らが征服した南イタリアをサルディニア国王エマヌエーレ2世に献上し,1860年10月には住民投票が行われシチリアと南イタリアがサルディニア王国に併合され,同様にウンブリア・マルケも併合された。1861年3月ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は初代イタリア王と宣言して,イタリア統一が完成した。

【第3次,1866年】普墺戦争の勃発に際して,イタリアはプロシア側に立ってオーストリアと戦い,残されていたベネチアの奪回を成し遂げた。この戦争でオーストリアからの独立戦争は終了するが,トレンティノの奪回は成功せず,同地のオーストリア統治は1918年までつづいた。また,ローマの併合は,1870年の普仏戦争におけるフランスの敗北で,ローマに駐屯していたフランス軍の撤退した後に,イタリア軍が入城し,住民投票によって行われた。

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