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●イタリア戦争 イタリアせんそう

ヨーロッパ フランス共和国 AD1521 フランス王国

 1521〜59 16世紀前半にヴァロア家(仏)とハプスブルク家(西)とが,イタリアでの覇権をめぐって行った闘争。この対立を利用して自己勢力の伸張をはかる教皇・イタリア諸邦・ドイツのルター派諸侯が両者に絡み,戦闘とともに複雑な外交戦が展開された。

 フランスは,シャルル8世イタリア遠征(1494)以後,イタリアヘの積極的な勢力拡大につとめ,フランソワ1世のとき,北イタリア支配を確立した。だが,1519年の皇帝選挙で,彼は,対立候補であるハプスブルク家カール5世スペイン王カルロス1世に敗れた。これ以後,スペインとドイツにまたがる帝国の支配安定・版図の拡大というカールの意図と,フランソワの勢力拡大政策とが衝突し,両者のあいだに激しい対立が生じる。1521年,教皇レオ10世と結んだカールが,ミラノ(1515年よりフランス領)奪回の兵を挙げ,以来両者は,1544年のクレピーの和にいたるまで,4回(1回1521〜26,2回1526〜29,3回1536〜38,4回1542〜44)にわたり,イタリアを主戦場として戦った。フランソワは,ヴァロア家がアンジュー家より引き継いで主張してきたナポリ支配権と,オルレアン公家から引き継いだミラノ公位継承権をイタリア進出の根拠とし,カールは,イタリアに対する皇帝の宗主権およびスペインのナポリ支配権を主張していた。

 戦況は,概してカールに有利に展開。フランソワは,ドイツのルター派諸侯を支援し,異教徒トルコとさえ同盟してカールに対抗したものの,戦果ははかばかしくなく,クレピーの和によって,カールの覇権がほぼ確立した。1547年にフランス王位を継いだアンリ2世もイタリアに干渉したが,ハブスブルク家の優位を覆せぬまま,1559年,カールの子フェリペ2世(スペイン王)とカトー=カンブレジに和した。半世紀に及ぶ戦争は終わり,フランスは,ミラノ・ナポリ・シチリア・サルディニアおよびトスカナ西南岸のスペインによる統治を認め,ほぼ全面的にイタリアから手を引いた。しかも戦争中に,ジェノヴァがカールの権力を頼んでフランスの圧力を脱し(1529),フィレンツェも,共和国からスペインを後楯としたメディチ家の支配する公国に転化した(1530)ので,イタリア諸邦の大部分がスペインの勢力下に入ることになった。こうして,ハプスブルク家はイタリアを制覇する。しかし,一方宗教改革に揺れるドイツでは,イタリアへ投入する戦力の確保のために,カールはルター派と妥協せざるをえず,このことがルター派諸侯の立場を有利にした。

 イタリア戦争は,封建制国家を犠牲にした絶対制国家間の領土拡張競争といえる。脆弱な勢力均衡に依拠して繁栄を保っていたイタリア諸邦は,中央集権化を達成した絶対制国家の干渉の前に団結して抵抗することもなく,むしろ自国存続のために列強の権力に依存した。その結果,諸邦は列強に翻弄され,独立性を失って,政治的にも経済的にも没落したのである。戦争中に在位した教皇たちも,自己の利益を優先させるばかりで,イタリア全体の平和など顧みなかった。そして,外国軍の侵略による国土荒廃がイタリアの混乱と衰退とを助長した。とくに,教皇庁を頂点にルネサンス文化の一大中心地となっていたローマが,1527年,カールの軍隊による劫掠で壊滅的打撃を被ったことは,イタリア=ルネサンスの終焉を象徴する事件である(サッコ=ディ=ローマ)。

 このように,絶対制国家の野心と搾取の犠牲となったイタリアは,統一を阻まれたまま外国勢力下に置かれ,近代化の遅れは決定的となった。近代史におけるイタリアの悲劇は,ここに始まる。

 なお狭義には,フランソワとカールの戦争(1521〜44)のみをイタリア戦争と称す場合もある。逆に広義には,15世紀末から16世紀初頭のシャルル8世ルイ12世イタリア侵略をも,この戦争に包含することもある。

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