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●イタリア王国 イタリアおうこく

ヨーロッパ イタリア共和国 AD 

 イタリアの王位は中世やナポレオンのイタリア支配期(1805〜15)にも存在したが,一般にイタリア王国は,国民国家として,民族・領土的に統一された王国を示す。

【王国の形成と確立】19世紀前半民族的統一国家の形成のための運動(リソルジメント)が展開され,結局サルディニア王国のピエモンテ政府による,イタリアのそのほかの地域(ローマとヴェネト地方を除く)の解放と併合といったかたちで統一が達成された。1861年1月総選挙,2月第1回国会(トリノ)が開かれ,左派(マッツィーニ-ガリバルディ派)が80議席,穏和派が363議席を占め,カブールがヴィットーリオ=エマヌエーレ2世にイタリア王位を献ずる提案をし,2月28日下院,3月14日上院を通過させ,3月17日公式に“イタリア王国”の形成が宣言された。王国は,立憲的君主・両議院・内閣制のかたちをとったが,実体はイタリアの“ビエモンテ”と法・行政・経済・生活・伝統の異なる諸小国家の寄せ集めの観を呈した。これらを混ぜて溶かして一つの形にはめる困難な仕事が今後に残された。政権は右派に託された(1861〜76)。中央集権体制の創出と産業の促進にはあまりにも乏しい国家財政の是正のため,間接税の強化がはかられ,その結果都市中心の局地市場から国民市場への脱皮がにぶり,加えて南部問題・領土問題等に直面せざるをえなかった。“市町村と県に関する法”(1865)で知事を通じての地方支配の確立をめざし,また農業や南部を犠牲にしてでも,北部の急激な工業化を進め,フィアット・ピレッリ・アンサルドなどの大企業を育てた。1866年普墺戦争の際プロシア側に立って参戦し,ヴェネト地方の併合に成功。1870年さらにローマの併合にも成功し,1865年フィレンツェに遷都していた首都を1871年念願のローマに移した。王国の統一後の自由の夢は将来への不安と変わるのは早く,一般住民にとって“新王国”とは税と徴兵義務の強制機関にすぎなかった。ディプレーティスの左派政権(1876〜87)が誕生し,これを“立憲革命”と呼んだが,実際には革命的なものはそれほどなかった。1882年選挙法が改正され,20万の選挙人口が200万に増大したが,それでも全人口の10%には満たなかった。すべての人を満足させることができず,人々の眼が外に向けられ始めた。1882年南アフリカのアッサブの植民地化が始まり,王国は“老獪な狐”から“狼”に変わりつつあった。1887〜1903年左派と右派の亀裂が拡大し,1900年国王ウンベルト1世アナーキストに暗殺された「暗い」局面に対し,産業基盤が整備され繁栄へとむかった。

【第一次世界大戦前後(1903〜22)とファシズム体制(1922〜45)】ジョリッティ政権下私企業の全面的発展が促され,さらに銀行と産業の結合による独占が進行し,1911年リビアの併合などの植民地獲得に熱意を示し,帝国主義的諸特徴があらわとなる。これに対し,労動運動が活発となり,社会主義政党が誕生し,階級闘争を通じての“プロレタリア国家”の建設が唱えられる。協商側について大戦に参加したにもかかわらず,領土回復の成功をみないまま,経済不況に見舞われ,こうしたもろもろの動きの間隙に生まれたファシズムが,その後大きく成長して,1922年ムッソリーニ政権を生み出した。

【王国の滅亡】1945年活発なプロパガンダと暴力的テロで組織強化をはかったムッソリーニ独裁体制は反ファシズム勢力と連合軍により倒された。その後どのような国家体制にするのか争われ,イギリスの支援する君主制の存続を考えて,国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世(1939年大戦介入に署名し,1943年ムッソリーニの首相の任務を罷免した国王)は1946年5月退位し,新しい君主として息子のウンベルト2世に譲るが,同年6月に君主制か共和制かを決める総選挙が行われ,その結果,共和制支持者が54%を占め,君主制が廃止された。

〔参考文献〕森田鉄郎編『イタリア史』1976,山川出版社

森田鉄郎・重岡保郎『イタリア現代史』1977,山川出版社