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●イタリア

ヨーロッパ イタリア共和国 AD 

 アルプス山脈・アドリア海・ティレニア海イオニア海に囲まれたイタリア半島と,シチリア・サルディニア,その他20以上の小島からなる。面積30万1,000平方km。人口約5,719万人(1996年)。国境内に小独立国としてローマにヴァティカン市国,北部にサン=マリーノ共和国がある。第二次世界大戦後の1946年6月2日の国民投票の結果,従来の王制を廃して共和国となった。1948年1月1日発効の憲法によって,〈労働に基礎を置く民主的共和国〉と規定されている。議会は二院制で,議員は直接選挙で選ばれる。ただし上院には大統領経験者やごく少数の終身議員が加えられる。大統領は上下両院の議員と各州の代表からなる会議で選出される。国家元首として対外的に共和国を代表するが,政治的責任を負わない。大統領によって指名された首相が閣僚を指名して組閣する。内閣は議会の承認を得なければならない。行政上19州に分かれ,その下に県・市町村がある。シチリア・サルディニア・アルト=アディジュなど周辺5州は特別の自治権が認められている。首都はローマ。ECの主要構成国の一つ。古来地中海交通の要衝としてヨーロッパとアジア・アフリカを結ぶ地域に位置し,ヨーロッパ文化の成立に大きな役割を果たしてきた。

【風土】イタリアの総面積30万1,000平方kmのうち3分の1以上は山地で,平野は4分の1にすぎない。北方はアルプス山脈に区切られており,ユーゴスラヴィア・オーストリア・スイス・フランスと境を接している。西側が高く,中央アルプスにはシンプロン・ブレンネルなど重要な峠道が古代から開かれており,北ヨーロッパと地中海地域の重要な交通路をなしていた。半島部にはアペニン山脈が背骨状に伸びている。大部分は石灰石からなり,夏季の乾燥と相まって耕作に不適な不毛地が多い。アペニン山脈メッシーナ海峡をへてシチリア島に連なっている。北部のポー川流域からヴェネト州にかけての平野は潅漑が容易であり,イタリアで最も豊かな農業地帯となっている。気候的には南北にわたって緯度の差が10度以上もあり複雑である。半島を南に下るにつれて降水量が減少し,いわゆる冬南型の地中海性気候となり,南部では冬も温暖である。定住形態もポー川流域の散居型から中部以南の山地における山上密集村落まで大きな差がある。経済的には,北西部とくにトリノ・ミラノ・ジェノヴァに囲まれた三角地帯はイタリアの中心であり,工業・農業ともに最も豊かな地域となっている。アルプス以北の国々との関係も密接である。これに対し南部および島部においては一部の例外的な地域を除いては耕地に恵まれていない。工業も未発達であっていぜんとして住民の大部分は生産性の低い農業に依存している。かつては南北アメリカやオーストラリアへ,また戦後はフランス・西ドイツ・スイスなどで多数の移民を送り出したが,現在では外国における雇用の機会も乏しく,移民による人口圧の緩和は望み得ない。その結果,南イタリアの中心都市ナポリに膨大な人口が流入した。1980年11月の南イタリア大地震ののち,この傾向はさらに拡大し深刻な社会問題になっている。このような南北隔差による二重構造は,イタリアの最大の社会問題として1861年の国家統一以来その解決がはかられてきたが,いまだ解決にいたっていない。

【住民】北部の住民はアルプス型・ディーナール型・北欧型の混血で,南部には地中海型が多い。全体として北部では頭髪や皮膚の色がやや淡く,南部において暗色であると考えられているが,例外も多くきわめて複雑である。ほとんどの住民がイタリア語を話すが,方言の差が大きい。これは19世紀まで国家統一が遅れ,小国分立の体制が長くつづき,地方文化の伝統が強固に維持されてきたことに関係する。北西部のヴァレ=ダオスタ付近ではフランス語・プロヴァンス語,オーストリアにつづくアルト=アディジェ(オーストリア人の“南ティロル”)ではドイツ語,さらに北東のユーゴスラヴィア国境付近ではスロヴェニア語が用いられている。南部にアルバニア語やギリシア語を用いる人々が少数いるが,ラジオ・テレビの普及とともに急速に消滅しつつある。宗教的には99%がカトリックとなっている。その他ユダヤ教・プロテスタント・中世以来の伝統をもつワルド派などが少数いる。それだけにカトリックの総本山たるローマ教皇庁の影響力が強かったが,若者の教会離れの傾向も著しい。1978年に長い論争の結果「人工妊娠中絶法」が成立した。教皇庁ならびにキリスト教民主党はこれに反対し,1981年に国民投票が行われたが,68%の賛成によって「中絶法」は存続することになった。これは教会の影響力の低下を示すと受け止められている。

【国名の由来】イタリアの名称の由来やその語源については議論が多い。かつて半島南部やシチリアに植民したギリシア人によって,半島南部のごく一部がイタリアと呼ばれたことに始まる。この名称がローマ人によって受け継がれ,前3世紀には中部にも拡大,前42年にアルプス以南のチザルピーナ・ガリアもイタリアに併合された。ローマ帝国崩壊後は,政治的な単位としてのイタリアはもはや存在しなくなったが,中世末期からルネサンスにかけて古典研究の進展と相まって,文化的統一性が自覚されるようになった。政治的な意味では,ナポレオン支配時代のイタリア共和国(1803)・イタリア王国(1805〜14)をへて,1861年の統一達成によって地理的・政治的概念としてのイタリアが成立した。

【歴史】イタリアにはすでに旧石器時代から人類が住んでいたし,前1500年ごろには北イタリアに青銅器をもつインド=ヨーロッパ語族系のテラマーレ文化が成立している。しかしイタリア史がいつ始まるのかについては,多くの議論がある。哲学者ベネデット=クローチェは〈1861年以前にはイタリア史は存在しない〉という趣旨のことを述べている。ローマ帝国の版図は広く地中海周辺全体をおおっていたし,帝国解体後は多数の小国家が分立していたからである。しかし一般には,6世紀のランゴバルド族の侵入と建国(568)以後をイタリア史として記述することが多い。ここでは古代史についてはローマ・エトルスクの項にゆずり,中世以降について時代区分の問題を中心に略述する。ランゴバルド族の定着によって北イタリアでは,土地制度や法慣習において大きな変化が生じた。8世紀にはカロリング朝が進出し,カールが“西ローマ皇帝”に戴冠されることによって,イタリアとドイツの結びつきが強まった。ランゴバルドおよびカロリング朝以降,12世紀のコムーネ(都市国家)の確立までの時期を「封建時代」と称する。この時期に封建関係が発展したが,その反面,古代以来の都市と商業の伝統は強く残っていた。この時代で忘れてはならないのは,いわゆる「ピピンの寄進」によって中・北部イタリアにおいて教皇領の基礎ができあがったことである。11世紀になるとヨーロッパの経済的発展に伴ってヴェネツィア・ピサ・ジェノヴァ・ミラノなどの都市が急速に発展した。下級騎士その他の土地所有者と都市の商人層が結合することによってコムーネが成立した。12世紀に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)がイタリア支配に乗り出したとき,北イタリア諸都市は結束して皇帝に対抗し,コンスタンツの和(1183)によって大幅な自治権を認められた。これ以降15世紀ごろまでを「コムーネの時代」と称する。一方,南イタリアはビザンツ・ランゴバルド・イスラーム諸勢力の支配下にあったが,11,12世紀にノルマンの騎士が征服して「シチリア王国」を建てた。この国家は12世紀末にフリードリヒ2世の支配下に入り,さらにアンジュー家アラゴン王と受け継がれた。きわめて集権的な国家であって,北のコムーネ群とコントラストをなす。イタリア史の特徴である南北の構造上の差はすでにこの時代に生じていたのである。なおイタリアは,ヨーロッパが優れたイスラーム文化(およびその地に保存されていたギリシア文化)を吸収して「12世紀ルネサンス」と呼ばれる革新を成し遂げるための重要な窓口となった。経済的には西ヨーロッパとイスラーム圏,さらに東アジアを結びつけるレヴァント貿易がイタリア諸都市繁栄の基盤となっていた。13世紀後半ごろからコムーネや封建領主相互の抗争がしだいに激化し,弱肉強食の時代に入り,しだいにコムーネ体制のなかから持定の有力者が都市の全権を握るシニョリーア制が生まれ,やがて世襲的な君主制(プリンチパート制)へ発展した。ただし,レヴァント貿易で優勢を誇ったヴェネツィアやメディチ家のフィレンツェはコムーネ体制を維持していた。1454年にミラノ・ヴェネツィア間で「ローディの和」が結ばれ,フィレンツェ・ナポリ・教会国家を加えた5大勢力のあいだで勢力均衡が成立した時代に,ルネサンス文化の発展がみられた。15世紀末にフランス勢力がイタリアに進出し,さらに16世紀に入ってハプスブルク家がイタリアの運命を支配するようになった。16世紀中ごろ国の独立が失われてしまった。16世紀中ごろ以降,スペイン=ハプスブルクがイタリアの運命を支配するようになった。16世紀中ごろ以降,19世紀のリソルジメント(国家統一)までの時代は「外国支配の時代」として把握されている。新大陸の発見とオスマン=トルコの地中海進出・新航路の開発によってイタリアの商業的地位は16世紀中に少しずつ低下した。商工業の沈滞・市民の地主化・反宗教改革の影響が相まって,社会全体が活力に乏しく停滞的なものになっていった。とくにスペインの植民地支配のもとにあった南部では農民の困窮が著しく,小麦の粗放大規模耕作や牧羊の拡大によって農村が荒廃した。一方,北イタリアのサヴォイア公国だけはハプスブルク家とブルボン家の対立を利用して着実に勢力を拡大し,1720年にはサルディニアを得てサルディニア王国となった。18世紀の後半には啓蒙思想の影響がイタリアに及び,とくにロンバルディアやトスカーナでは君主による上からの改革が試みられ,財政改革・商業の自由化・裁判制度の改革が行われた。この時代にロンバルディアでは農業技術が進歩し,ブルジョワ的経営が拡大したらフランス革命はイタリア人のあいだで大きな反響をひきおこし,ジャコバン主義者たちが革命思想の普及に努力した。ナポレオン軍は1796年以後イタリアの大部分を征服した。エジプト遠征のあいだに一時旧勢力が復活したが,彼は再征服を行い,封建制を廃止し,修道院の解体・民法典の発布・軍制の改革・公教育制度などフランス革命の成果を導入した。この時代に民族統一への希望が生まれてきた。ナポレオン没落後復活した旧体制のなかで,反動政府に対する抵抗が秘密結社の形で展開した。この経験のなかでマッツィーニは「青年イタリア党」を結成し,革命と統一をめざして,何回も蜂起を試みたが失敗した。その後,愛国的自由主義の運動が台頭し,漸進的な改革を通じて国家統一を達成しようとした。やがて各地で憲法を要求する運動が生じ,1848年1月のシチリアを初めとする立憲革命の運動となった。パリの三月革命やウィーンの二月革命につづいて,イタリアでも同様な運動が成功したかにみえた。サルディニア王国軍はオーストリアに宣戦したが,結局戦いに敗れ,革命は失敗に終わった。サルディニア王国だけは1848年革命の成果である自由主義的憲法を維持したので,これ以後エマヌエーレ2世のもとで国家統一運動の中心となった。首相カブールはクリミア戦争に兵を送り,さらに外交によってイタリア統一を国際問題とするのに成功し,ナポレオン3世の援助を得て,1859年に第2次のイタリア解放戦争を開始した。ナポレオン3世は途中でオーストリアと休戦し,サルディニア王国は窮地に陥ったが,サヴォイア・ニースをフランスに割譲することを代償に中部イタリアを併合することを認めさせ,1860年にこれを実現した。一方,ニース出身の共和主義者ガリバルディは義勇軍「千人隊(赤シャツ隊)」を組織し,ブルボン家支配に対する反乱が生じていたシチリアへ遠征してブルボン支配体制を倒し,さらに半島南部へすすんでナポリへ入城した。これに対してサルディニア軍も南下し,教皇領を制圧してナポリに達した。こうした統一が達成され,1861年3月イタリア王国が誕生した。さらに1866年にヴェネト,1870年にローマを併合して国家統一が完成した。政治的統一は達成されたが,中世以来の分裂を克服し,すでに産業革命を完成している先進諸国に対抗していくことは容易なことではなかった。統一後に政権を担当した「右派」は,外資の導入によって鉄道・道路の整備を行い工業化につとめるとともに,財政的に南部を収奪した。1876年にデプレティスが首相となり「左派」の時代に入る。行政や選挙制度の改革が行われ,農業や工業の危機を保護関税政策の採用によって切り抜けようとした。1887年に首相となったクリスピは権力政治を追求し,重工業の育成をはかる一方で積極的に植民地獲得を行った。ソマリーランドの植民地化には成功したが,エチオピア侵略は1896年のアドワの敗戦で失敗した。1903年首相となったジョリッティは改良主義的な政策をとり,北部の資本家・労働者,南部の大土地所有者の協調の上に工業化をすすめようとし,1911年にはイタリア-トルコ戦争を開始する一方で,1912年には普通選挙法を導入した。しかし,このあいだに社会主義思想と国家主義思想の対立が激化し,経済危機のなかで深刻な問題となった。社会的な行き詰りは第一次世界大戦参戦への重要な契機となった。イギリス・フランス側と領土についての「ロンドン秘密条約」を結んだ首相サランドラは参戦を強行した。戦況はオーストリア軍の攻勢によって困難をきわめたが,1918年10月のヴィットーリオ=ヴェネトの勝利によって終戦を迎えることができた。第一次世界大戦後の不況は多数の失業者を生み出し,社会的矛盾を増大させた。ロシア革命の影響下に労働運動も激化し,1920年にはミラノ・トリノで労働者による工場占拠が行われた。それに対しムッソリーニが1919年に組織した戦闘ファッショが,退役軍人・小ブルジョワ・農民のあいだに勢力を拡大して政府の黙認のもとに発展し,1922年l0月の「ローマ進軍」にいたった。首相となったムッソリーニはファシスト軍や大評議会を創設し,1929年までに独裁体制を確立した。同年,ローマ併合以来対立していた教皇庁と和解した(ラテラノ条約)。世界恐慌が襲来すると,ムッソリーニは重要産業への介入や統合を行う一方で,1935年にはエチオピアを侵略し,ナチスと手を結んで1937年には日独伊防共協定を締結した。その結果,ナチスにひきずられるままに第二次世界大戦に参戦したが,アルバニア・ギリシア・アフリカの各戦線で敗退した。1942年末には連合軍の爆撃が始まり,1943年3月には連合軍がシチリアに上陸し,労働者の反戦ストやレジスタンスが始まった。1943年7月,王室・軍部・一部のファシストがクーデタをおこし,ムッソリーニ政権は崩壊した。彼はドイツ軍の手で救助され,コモ湖畔のサロにファシスト共和国を建てたが,1945年春にパルチザンに捕えられ処刑された。

【第二次世界大戦後のイタリア】レジスタンスは共産党・社会党・人民党(キリスト教民主党)の指導と協力のもとに行われたので,戦後の改革はこれらの党の協力によってすすめれた。1946年6月の国民投票によって王制が廃止され共和国が成立した。憲法は1948年1月1日から施行された。キリスト教民主党デ=ガスペリを首相とする連立政権は,秩序の回復・南部の土地政革・インフレーションの克服に努力したが,キリスト教民主党内の左右対立のために社会改革は十分な成果をあげることはできなかった。1950年代に入ると,「イタリアの奇蹟」と呼ばれた経済発展の時代となる。鉄鋼業・機械工業・石油化学工業の発展,炭化水素公社(ENI)による天然ガスの採掘などは,1958年のヨーロッパ経済共同体(EEC)の発足と相まって経済のスケールを拡大させた。南部から北部へ,さらにEEC諸国への移民が盛んとなった。またマス=トゥーリズムの発展は優れた観光資源をもつイタリアに大きな利益をもたらした。しかし,南北隔差に示されるようなイタリア社会のひずみは経済成長のなかでさらに増大し,1960年代に入ると景気の後退とともに深刻な問題となった。1963年末,社会党が入閣に踏み切り,モロ首相のもとで中道左派政権が誕生した。その基盤はきわめて不安定であり,首相はしばしば交代したが,1960年代・1970年代を通じてその基本線は維持された。1968年以降,学生・労働者の反体制闘争は新左翼運動という形をとり,労働運動全体に大きな影響を与えた。1969年秋には「暑い秋」と呼ばれる不穏な社会情勢が生じた。たび重なるストで経済も大きな打撃を受けた。このなかで共産党は着実に勢力を拡大し,ベルリンゲル書記長は1973年にキリスト教民主党との協力路線を打ち出し,「歴史的妥協」を提唱した。しかし,第1党たるキリスト教民主党と第2党共産党の大連立は結局実現しなかった。他方で,ネオファシズムである「イタリア社会運動」の勢力も南部を基盤に議席を増やすことに成功し,1980年代に入っても政治惰勢はなお混沌としている。経済的には機械工業の不振・エネルギー問題・地中海沿岸諸国の安価な農産物の流入・EC内部での競争・失業問題,とくに大卒者の就業の困難など多くの問題を抱えている。しかし,それにもかかわらずイタリア人の個人生活が、“不安定のなかの安定”を維持していることも見逃せない。

【文化】長い歴史をもち,豊かさとはなはだしい矛盾を含んだイタリアの文化を要約的に述べることは困難であり,事実上不可能といえる。次にいくつかの特徴を指摘するにとどめる。歴史的にみれば,イタリアはスペインとともに11,12世紀にイスラム圏の優れたギリシア文化およびその地に保存されていたギリシア文化を導入し,フランスを中心に「ゴシック文化」を形成するのに大きく貢献し,逆にその影響を受けた。このような西ヨーロッパ世界と地中海への両属性が一つの特徴である。次にその商業的性格がある。彼らは12,13世紀から商人・金融業者として西ヨーロッパ諸国に進出し,会社・銀行・手形など今日にいたる商業技術の基礎をつくりあげた。このような商人の活動は都市国家(コムーネ)を基盤として展開した。彼らは自分の都市をよりどころにし,それを誇りとしていた。13世紀ごろ各都市に続々と建てられたイタリア的ゴシック様式の大聖堂・洗礼堂・鐘楼や市庁舎の建築は,このような市民意識を表現している。次にローマの後継者としての自覚がある。いうまでもなくこれがルネサンスを導いたものであるが,その底には中世を支配したゴシック文化に対する対抗心が認められる。ローマ法研究の復興やその中心としてのボローニャ大学の成立(12世紀)もヨーロッパ全体に大きな貢献をなした。今日のファッション産業や工業デザインに連なる優れた視覚性もイタリア文化の大きな特徴であることは,レオナルド=ダ=ヴィンチやミケランジェロの名をあげるまでもない。同じことは音楽についてもいえるであろう。ダンテ・ペトラルカボッカチオに始まる俗語文学の伝統もヨーロッパ文化の大きな遺産である。イタリアは「天才の国」と呼ばれることがあるが,それもあながち誇張ではない。優れた人々が個性をみがき,突如として輝かしい才能をあらわにする。ルネサンス期の芸術家だけでなく,ガリレオから今世紀の原子物理学者フェルミにいたる科学者,デカルトの合理主義哲学が支配した18世紀において,孤立したまま独自の歴史哲学を組み上げたヴィーコ・マキァヴェリからグラムシにいたる政治思想家など,枚挙にいとまがない。このような実験的精神は,今日の前衛的な小説や映画にもみられるものである。イタリアはその混沌のなかから,今後も世界に対し鋭い問題提起をつづけることであろう。

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