●磯漁 いそりょう
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岸辺近くの浅磯や,比較的透明度の高い海域で鉤(かぎ)や“やす”“ふし”などと呼ばれる銛(もり)で,魚貝や海草その他の海棲生物を採る漁をいう。磯漁はきわめて古い時代からあり,またこれを専業とする漁民集団も今日にいたるまで存在する。それだけに興味深い漁撈技術や漁法が残っており,そのなかには原始的漁法をしのばせるものも多い。山陰の沿岸地方で用いられているカナギ,山口県豊浦郡の島々でいわれるイノミ,隠岐ではミツキなどの漁法はどれも海のなかをのぞきこんで魚貝を採るやり方をさしている。また,磯辺を歩きながら海草などをとるカチイソと呼ばれる漁法もある。北海道の昆布漁は,これが特殊に発達したものの一つである。磯漁に従事する漁民は大きく分けて,潜水漁民と見突き漁民の種別ができる。【潜水漁民の磯漁】潜水漁撈に従事する漁民は,アマ・モグリ・カヅキ・スミツキなどと呼ばれ,女性(海女)と男性(海士)の漁民がそれぞれいる。海女は主として,底物のサザエやアワビなどの貝類や天草などの海藻類を潜って採取するのに対し,海士は,これらのものと同時に,海中にいる魚族をヤスやモリなどで突き採ることを得意とした。種子島北部漁村には,スミツキと呼ばれる潜り漁専門の男性の漁民が多くいるが,彼らは,天草やトコブシなどの海藻類の採取とともに,7〜8ヒロの海中にいる大型の魚族もホコで突く。かつてはスミガシラといわれるリーダーを中心に5,6人で組をつくり,共同で潜り漁に従事したと伝えられる。またアマは集団で好漁場を求めてワタリ(移動)をしたことも知られている。とりわけ,日本海沿岸に点在するアマ漁村では,自らの先祖を福岡県宗像郡の鐘崎の出身とする伝承をもつものが多く,ひとつの村から次々に移住分村していった過程が理解できる。
【見突き漁民の磯漁】一方,見突き漁民の方は,一般に磯漁師と呼ばれ,これには直接海に入って見突きする“カチイソ”と,船上から箱メガネをのぞき,長い棹の先についたヤスやモリ,あるいはネジリなどをあやつり魚介藻類をとる“フナイソ”の種別がある。フナイソは,一人で櫓をこぎながら漁をする場合もあれば,複数の仲間が乗り込んで漁貝を採るもの,舵をきるものなど役割分担を決めて作業をする場合もあった。磯漁師はアマよりも広い分布をもつといわれ,地方によっては,イソミ・イソネギ・ホコツキ・ツキンボなどの呼称がある。手の延長として長い棹をあやつり,しかも基本動作が,突く・ねじる・ひっかくというきわめて単純なものであるだけに,高度な技能が要求された。また船から海のなかをのぞきこみながら漁をする作業なので,どれだけ海中の状況を正確につかめるかが勝負となる。とくに磯漁をするものにとって,箱メガネの発明は画期的にことであった。箱メガネとは,角形あるいは円形の箱の底にガラスをそなえつけたもので,水中に直接顔を入れなくても,箱メガネを通して海中の様子がよくつかめた。1897年(明治30)ごろから使用されている。本土ではガラス眼鏡,沖縄ではタマオケともいわれている。現在のように箱メガネを使用する前までは,竹筒に魚の油を入れて漁に出て,これを流して波をしずめのぞきやすくした。またイカの腹わたをワラぼうきにつけ,海面に振りまいたりもした。これらの方法をトラシ・タラシ・トラセ・ナシフリ・トラヒキなどともいう。こうした手法は各地によって異なり,隠岐ではアワビの腸を口に含んで吹いたり,出雲の沿岸地方では,サバの頭の塩潰けを黒焼きにして使用した。またくるみやかやの木の実を噛み砕き吹きつけたりもした。ところで見突き漁民のなかには,瀬戸内海や北九州の家船漁民のように家族全員が船住いをし,好漁場を求めて移動・漂泊をする人々がいたが,磯漁の多くは地域の漁業権が共有されている場合もあり,その漁期が制限されることもあった。彼らの多くは現在定着し,村を形成しているが,かつては葬式や祭りなどのとき以外は,家族単位で海上で生活していた。
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