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●伊勢信仰 いせしんこう

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 伊勢神宮に対する信仰であって,時代により信仰者層などに変化があり,現在にいたっても伊勢参宮者は多い。

【古代の伊勢信仰】『延喜式』に〈凡そ王臣以下,輒すく太神に幣帛を供するをえず,其の三后,皇太子のもしまさに供すべき者あらば,臨時に奏聞せよ〉と明記されている。古代においては天皇が公の立場から幣帛を奉る以外は,伊勢神宮への幣帛の供進は禁止されていた。天皇・三后・皇太子以外の者は,どのような形であるにしても一切不可能である。これは伊勢神宮が,皇室の祖先神を祭っているとされることによる。しかし,このことは天皇が自ら伊勢へ赴くことを意味するものでなく,歴代の天皇で神宮に参拝したのは1869年(明治2)の明治天皇が初めてである。律令体制の動揺期を迎えて,国家財政の破綻から,伊勢神宮の経営も困難となるにしたがい,私幣の禁止を緩めてきた。

【中世の伊勢信仰】武家社会における伊勢信仰は,東国武士のあいだに広まり,源頼朝のころに集大成する。武士による御厨の寄進は増大し,この御厨には伊勢神宮の分霊を勧請した神明社が鎮座され,ここが伊勢信仰の地方拠点となった。ここに東国武士のあいだに神宮崇敬の気運が広まる契機となる。鎌倉中期の文永の役(1274),弘安の役(1281)は,信仰の地方進出に画期的な事件といえる。伊勢神宮に異国降伏祈願があげられ,蒙古撃退の一因ともいえる大風雨は,大神宮風社の助力によるという説が大神宮側から宣伝され,それが社会に受け入れられるようになったことが,以後の伊勢信仰に大きな影響を与えた。伊勢参宮は鎌倉時代からみられるが,室町時代になって足利義満ら将軍の頻繁な参宮が刺激となって急増した。西国では神宮御厨の設立が少ないので,伊勢信仰の武士への普及は比較的少なかった。伊勢信仰の民衆への普及は室町時代以降といえる。神役人層が戦国大名と結びつき,その領国内の百姓層までを檀那とするようになってからである。伊勢神宮の祠官,とくに伊勢御師と呼ばれる一群の人々が,神宮の存在すら知らなかった山間僻地をめぐり,御祓を配り,神宮の霊験を説いて回りながら伊勢信仰を広く民間に植えつけていった。一方,民衆のあいだにも伊勢神宮は日本の惣氏神であるから,氏子である日本人は必ず参詣しなければならないという観念が現れ,「男女ともに一生に1回は年齢にかかわらず参宮をせねばならない」といわれるようになった。このようなことが相まって伊勢講なども形成されるようになり,広範囲にわたり伊勢信仰は浸透していった。

【近世の伊勢信仰】江戸時代に入って,伊勢信仰は神祇信仰のなかで最も大規模なものになった。国民大衆の大多数を占める農民・商人が参宮界の主流となり,全国的に中下層の者にまで及んでいる。しかし,国民のすべてが参宮を可能にしたのではなく,参宮者の中心は家長層であって家族や雇傭人にとっては不可能なものであった。伊勢参宮が困難な者が、その参宮の実現を一切の事柄を無視して果たしたのが抜参りの一面といえる。家長・主人からの許可を得ることなく,無断で家出同然にして参宮を果たす風潮が江戸時代には広く存在していた。この抜参りは,家族道徳の破壊であることからして禁止の対象となるものである。しかし,伊勢参宮の国民的義務観が普及するにつれ,参宮は容易には禁止し得ず,むしろ奨励せねばならないものとなる。ここに抜参りについていえば,不法行為であるにもかかわらず社会では大目にみられ,罪悪視されることが少なくなる。そのため,地域によっては,抜参りによる伊勢参宮を人生儀礼(成年式)の一つとすることもある。抜参りが周期的かつ大規模に行われたものとして,数回のお蔭参りをあげることができる。江戸時代には,伊勢信仰は敬虔な信仰というよりは,物見遊山の要素を色濃くしたものとして普及していたといえよう。

〔参考文献〕『歴史手帖』12-7,1984

西垣晴次『ええじゃないか』1973,新人物往来社

新城常三『社寺と交通』1966,至文堂

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