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●イスラーム文化 イスラームぶんか

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 現在,イスラーム教徒が多数を占める国々は中近東・アフリカ・インド亜大陸・インドネシア島嶼部・マレー半島に散らばっている。またイスラーム教徒は少数だが,その存在が社会的に大きな意味をもつ国はソ連邦(中央アジア・カフカス・ボルガ中流域),中国(新疆省ウイグル自治区),ユーゴスラヴィア(ボスニア共和国),フィリピン(南部の島嶼部)である。このようにイスラーム世界は広大であり,自然条件・民族構成の多様性に特微がある。これに歴史的にイスラーム世界の一部を成していたことのあるアンダルス(8〜15世紀),シチリア(9〜11世紀)を加えるならば,イスラーム世界の文化は時間的・空間的に重層した,広大な構造体であることがわかる。この広大なイスラーム世界の文化中心は中近東・北アフリカである。これら地域にはアラブ・イラン(ペルシア)・トルコの各民族が住み,それそれの言語に基づく独自の文化を育ててきたとともにイスラームという宗教を核に共通の文化をかたちづくってきた。

 イスラーム文化の発展過程を便宜的に分けるとつぎの4期に区分できる。[1]7世紀初頭〜11世紀中葉,[2]11世紀後半〜15世紀,[3]16世紀初頭〜18世紀,[4]19世紀以降〜現代。[1]の時期はイスラーム文化の形成期であり,アラブの主導のもとにギリシア・ヘレニズム文化イラン文化古代オリエント世界に興亡したアラブと同じ語族に属するセム系諸民族の文化−−一神教としてのユダヤ・キリスト教などを摂取して,コーランとハディース(預言者ムハンマドの言行録)を軸に独自の文化を確立していった時代にあたる。ギリシア・ヘレニズム文化は旧ビザンツ帝国領であったシリア・エジプトから,またビザンツ帝国から異端を宣告され,ササン朝に逃れてジュンディシャープール学院でギリシア文化をシリア語で伝えていたネストリウス派のキリスト教徒たちの遺産を摂取することから始められた。ウマイヤ朝からアッバース朝初期にかけて,ギリシア思想家の著作をアラビア語に系統的に翻訳する仕事がつづけられ,アッバース朝のカリフ,マームーンが建設した“バイト=アルヒクマ”(「知恵の館」)はその中心的な研究機関であった。キンディー新プラトン派の哲学で解釈されたアリストテレスを紹介し,ファーラービーは,アリストテレスの形而上学に影響されて存在論にすぐれた業績を残した。自然科学では薬学・数学・天文学・錬金術の分野でギリシア文化の影響をうけたが,とくに医学において著しくフナイン=ブン=イスハークの功績が大きい。

 イラン文化は文学においてアラブに影響を与えた。ササン朝以来,行政実務にたけたイラン人のなかにはバルマク家のように政治的要職を独占する者があり,イラン人であるにもかかわらず,アラビア語で文学活動を行い,8〜9世紀にシュウービーヤ運動がおこされた。これに危機感をもったアラブは,ジヤーヒズを中心に文学をアラブの手で育てていく動きを示した。外来文化の摂取が一通り終わると,イスラム固有の学問が発達した。これにはコーランの解釈学・読誦学・ハディース学・法学・神学・アラビア語学・歴史・地理学の分野があるが,このなかでもっとも重要視されたのは法学であった。イスラームは宗教にちがいないが,何をいかに信ずべきかという問題より,何をいかになすべきかという実践的行為の方が尊重され,この結果,神学よりも社会規範を体系化した法学が発達したのである。「シャリーア」(イスラム法)は学識あるウラマーによって体系化され,地域的慣行や論理的解釈の違いによってスンナ派では四つの学派(マーリク派ハナフィー派・シャーフィイー派・ハンバル派),シーア派ではジャアファル派が形成された。神学は法学ほど重要視されなかったが,ギリシア哲学の方法を借りたムータジラ派がその地歩を固めた。ついでアシュアリー派がムータジラ派の合理主義に歯止めをかけてスンナ派内で優勢を占めるようになった。

 [2]の時期が始まるのは1055年を目安としてよいであろう。この年,中央アジアからやってきたトルコ系遊牧民の王朝,セルジューク朝がバグダードに入城し,アッバース朝カリフから世俗的な支配を奪った。これは政治面ばかりか文化的にも転換期であった。まず,あまりにも律法主義に傾いていたイスラームや,宗教=法と考える態度に反発する動きが出てきた。一般民衆はイスラームに対して素朴な信仰心,敬虔な宗教感情から接することを望み,理性的な法学には失望感を抱いていた。こうしたなかから神との直接的合一をめざすスーフィズム(イスラーム神秘主義)が民衆のあいだに浸透していき,12〜13世紀にはイスラーム世界の各地にカーディリー教団(イラク),ナクシュバンディー教団(中央アジア)・アフマディー教団(エジプト)・ベクタシー教団・メウレヴィー教団(以上,トルコ)がつくられ,教勢はあちこちに広がっていった。このような民衆的な宗教運動に対してウラマーは立直しをはかる。ガザーリー(1058〜1111)のようにスーフィズムとの調和をはかる者があり,また,カイロにアズハル学院(972),バグダードにニザーミーヤ学院(1067)などのマドラサ(神学校)を建設,組織的教育を行った。しかし,この努力にかかわらず,法学はイジュティハード(自由な立法行為)を停止し,自ら閉塞状況をつくり出していった。ただ,哲学と医学を中心とする自然科学はヨーロッパ人によって再評価され,アンダルスやシチリアのような文化的な橋頭堡を通じて,また十字軍との直接的な文化交流を通じてヨーロッパに逆輸出された。イブン=シーナのアリストテレスの伝統をうけついだ存在論がトマス=アクィナスのスコラ哲学に与えた影響,医学書がアラビア語からラテン語に翻訳されてギリシア文化が中世に蘇った意義は大きい。

 [3]の時期は16世紀に始まる。この時期はアラブ文化が後に退いてスンナ派世界はオスマン朝トルコによって,シーア派世界はサファヴィー朝イランによって主導されたところに特徴がある。トルコ系遊牧民の文化は,すでに11世紀のセルジューク朝の進出以来,大きな影響を与えスーフィズムの成立にはシャーマニズムも関係しているといわれるが,オスマン朝が1517年にシリア・エジプトを征服して中近東・北アフリカの支配権を獲得してからトルコ文化がアラブ文化を凌駕したといってよい。法学ではハナフィー派が優勢であり,理論的な研究も進んだが,むしろ,法の具体的運用において官僚制を整備し浸透させたところにオスマン朝の真骨頂がある。サファヴィー朝イランは,シーア派を国教としてこれをイラン文化の核に据えた。すでにイラン人は10世紀に近世ペルシア語を成立させ,フィルドゥーシーの民族叙事詩『シャー=ナーメ』を生み出してアラブとは一線を画する文化をもつにいたっていたが,ここにきてシーア派を精神的な糧として独自の道を確立した。スンナ派を顕教とすればシーア派は密教といわれ,このことはこの派の内省的性格とスンナ派が斥けたイブン=シーナ・スフラワルディーの哲学的伝統をとりいれて思索的・内面的解釈の宗教となっていることに現れている。

 [4]の時期はヨーロッパの政治・経済・文化の各領域からのインパクトが絶えない時期であった。民法・刑法・商法をはじめとする近代ヨーロッパの法典をイスラーム法体系のなかに受容するかどうかが問題となり,まだ立憲主義の採否がイスラーム世界の人々を巻きこむ運動に発展した。しかし,ヨーロッパの進出に対する文化的対応は,イスラーム世界が一丸となってあたるという方式がとられることはまれであり,ナショナリスティクなかたちをとった。アラブは,19世紀前半のレバノンのマロン派キリスト教徒がおこしたナフダ(アラブ文芸復興)に端を発するアラブ民族主義を武器にし,オスマン朝では19世紀末に顕在化したジヤ=ギョカルプに指導されたトルコ主義的文化イデオロギーを拠り所にした。