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●イスラーム諸国会議 イスラームしょこくかいぎ

AD1971 

 イスラーム教を国教としている国家によって構成された国際機構で、イスラーム国家間の結束を強化し、民族の自主・独立を支援しながら、文化や経済の交流を進めることを目的としている。1971年5月に設立された。

【成立】1967年6月5日からの,いわゆる「6日戦争」でエジプト(アラブ連合)は惨敗した。これがナセルへの幻想となり,パレスチナ解放人民戦線(PELP)をはじめとする多くのゲリラを生みだし,ハイジャックを出現させた。国連安保理事会の態度に失望し,イスラエルの態度に怒ったアラブ連合のナセルは,威信の建て直しをはかり,ソ連給与の武器で再建した軍隊をもって,1969年5月,イスラエルに宣戦した。一方,1969年2月5日から,米ソ英仏の4大国は中東紛争調停のための大使級会談をもったが,1970年9月に,ナセルが急死して,中東情勢は変化してきた。

 こうしたなかで,サウジアラビアのファイサル国王はイスラーム首脳会議を呼びかけ,1969年9月にモロッコのラバトで開催された。ラバト会議は石油産出国と非産出国の対立から成果をみないままに終わったが,イスラエル空軍のエジプトに対する猛爆が続けられるなかで,イスラーム諸国会議の設立だけが定められ,1971年5月にその設立が実現した。

ラホール宣言】第2回首脳会議は1974年に,西パキスタンのラホールで開催され,第4次中東戦争によって生じたイスラエル軍のアラブ占領地からの撤退とイスラーム諸国の経済開発を内容とするラホール宣言を発したが,第1回会議からこの時期までのあいだには,大きな変動がみられた。1972年2月に訪中し,ついで中国の国連加盟を実現させたアメリカのニクソン大統領は,1972年5月には訪ソし,米ソの和解が進んだ。そのニクソンはウォーターゲート事件で辞任することになるが,ナセルの後をついだサダト大統領は,1971年9月,シリア,リビアとアラブ共和国連邦を結成し,国名をアラブ連邦からエジプトに改め,スエズ運河再開にも柔軟な姿勢をみせていたが,米ソが接近して,対イスラエル政策を変更せざるをえないとみるや,1972年7月,ソ連軍事顧問団を追放し,1950年代中ごろからの親ソ政策に終止符をうった。その上で,1973年10月3日から,スエズ運河を渡り,対岸のイスラエル陣地を攻撃して第4次中東戦争を開始した。シリアも北方のゴラン高原でイスラエル攻撃を開始した。

 第4次中東戦争の特徴は,アラブ諸国が一致してエジプトを支持し,石油を武器にして,世界に石油ショックをおこさせ,第三勢力の威力をみせつけ,1973年11月の停戦合意書にそれを反映させ,1974年1月の第1次シナイ協定にこぎつけたことである。第2回首脳会議は意気あがるイスラーム諸国の姿を映したものであった。

【エジプト非難】中東和平に反対するシリア・リビア・パレスチナ解放機構(PLO)はソ連の援助を受け,パレスチナ問題も穏健派と過激派が争うなかで,1977年11月,サダトはイスラエルを訪問し,1979年3月には,カーター大統領の調停でエジプト・イスラエル間の和平が実現した。アラブ連盟の外相・経済相会議はエジプト制裁を決議したが,イスラーム諸国会議の外相会議も,1979年5月,モロッコのフェスで開かれた会議で和平に反対し,パレスチナ国家の首都をイェルサレムと決議して,エジプトを孤立化させた,外相会議はさらに,ソ連がアフガニスタンに侵攻を開始すると,1980年l月に,アフガニスタンに対して会議参加の資格停止を決議しているし,1980年4月と10月には,イラン-イラク戦争停戦のための使節団を結成して,両国に派遣したが,目的は達成されなかった。

 以上のように,約40の参加国は,イスラーム宗派の違い,石油などの資源を所有しているかどうか,経済・政治の発達の相違などから,利害の一致が困難で,実際的機能を発揮できない状況にある。

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