●イスラーム教育 イスラームきょういく
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イスラームにおいては,知的活動がきわめて重要視されている。〈学者のインクは殉教者の血よりも尊い〉,〈知を求めては中国も遠しとするな〉といったハディースは端的にこのことを証すものであろう。可能なかぎり知を獲得して存在の神秘に肉迫し,その背後にある神的なものに迫るという意味で,勉学することは信者に課せられた基本的な義務の一つである。同時に知を獲得した者は,それを単に独占するのではなく,さまざまな機会にそれを実践し,他人に教授することも信者の義務である。このような事情から,イスラームにおいては,教育は登場当初から重要な地位を占めてきた。知的活動・教育の重視については,最初に啓示されたという『コーラン』の凝血の章が,その根拠とされている。
〈読め,創造したまえる方,凝血から人間をつくりたもうたなんじの主のみ名によって。読め,なんじの主はこよなく尊貴であられ,筆によって教えたまう方〉
【イスラーム教育の歴史】イスラーム教育において,その基本的な源泉は,その聖典『コーラン』である。信者たちはそれゆえ,まず『コーラン』について学ぶことに専念し,同時に預言者の示した知識,それを伝えるハディースについて学ぶことから始めた。
そして教育の場として最も重要なのはモスクであった。ムハンマドは,メディナのモスクでじきじきに信徒たちに教えをたれたといわれている。モスクは本来,単なる礼拝の場所ではなく,種々の公共的な活動の場であり,とりわけそこでは教育が重視されており,この伝統はさまざまなバラエティーをもつにしても,現在にまで受け継がれている。
最も初期においては,モスクが一般信徒たちの宗教的教育の場であったが,徐々に,より一貫した教育を行うために,クッターブという特別な学校ができあがっていく。クッターブは,児童教育のための寺小屋のようなものであり,その教育内容は時代・地域によって若干の相違はあるが,主として『コーラン』の読誦や暗記,簡単な章句の解説が行われた。それに宗教的な内容と直接かかわりのない読み書き・算術などがつけ加えられていく。この初等教育機関は,イスラームに関する基本的知識・宗教儀礼を組織的に教えこむ点で,ムスリム社会に大きな貢献をしている。
多くの学生たちは,クッターブを卒業するとすぐに実社会に入ったが,とくに優れた学生は一段と高等な教育を受けることを望んだ。しかし初期の高等教育は,まだ組織的ではなく,学識者に私的な教授を仰いだり,モスクで集団教育を受けていた。ウマイヤ朝時代には,著名な教師を中心とする公開講座がしばしば催されていた。
アッバース朝の時代になると,それまで蓄積されてきた知的エネルギーが,旺盛にあふれ出し,それと同時に高等教育機関もしだいに整備されていく。その際に注目しなければならないのは,学問・教育の内容がそれまでのように宗教諸学にもっぱら重点が置かれるのではなく,哲学・数学などの古代諸学といわれる領域にまでわたっている点である。
この時代においても,依然として重要な役割を演じたのはモスクであった。当時モスクは,シャイフあるいはウスターズなどと呼ばれる教師に,マジュリスと呼ばれる講座を担当させ,定期的な講義を提供した。ただし,その一方では,私的教育も相変わらず重要性を失ったわけではなかった。富裕な人々が,子弟のために優れた学者を家庭教師に雇ったり,教師が自宅で多くの学生に教授したという例も多い。
しかし研究・教育への関心の向上により,これ以降高等教育はますます組織化されていく。その第1は,国際的な規模による専門の教育研究機関の設立である。9世紀初頭に,カリフ,マームーンが首都バグダードに設けたバイト=アル=ヒクマ(叡智の館)は,この種の機関としては最初のものであり,その果たした高度な文化的役割のゆえに,広く世界に知られている。11世紀初めにファーティマ朝がカイロに建てたダール=アル=イルム(知識の館)など,この種の機関はイスラーム世界のあちこちの大都市で建設されている。これらの機関ではもちろんイスラーム諸学が研究されたが,同時に古代諸学の研鑽も積極的に行われ,しばしば後者の方により力点が置かれた。けっして,いわゆる宗教的な学の研究に終始しなかったこの種の知的活力が,固有なイスラーム文化の開花・発展に大きく寄与しているのである。
専門的な教育研究機関の設立と同時に,従来のモスク教育を発展させたマドラサという高等教育機関が発達していく。この種の機関は,11世紀中葉,セルジューク期の宰相ザーム=アル=ムルクが,彼の名にちなんだニザーミーヤ学院を創設して以来,イスラーム世界の各地に急速にひろがっていく。各地のスルタンや高官たちはこぞってこの種の学校に強い関心を示し,これ以降学生に奨学金を与え,学寮に寄宿させる形式が一般的になっていく。特筆すべきは,この種の学校が依然として完全なモスクとして建てられている点である。基本的にはモスクと学校の違いはないが,後者は学習のために特別な配慮がなされ,学生の扶養を行っている点で区別される。
マドラサの隆盛が,イスラーム文化の発展・維持に大きな役割を演じたことは疑いないが,ちなみにヒジュラ暦7世紀のダマスクスの学校数を記しておくことにしよう。この時点で『コーラン』学習に重点を置くダール=アル=クルアーン7校・ハディースの学習を中心とするダール=アル=ハディース16校・コーランとハディースをともに教える学院3校・シャーフィイー派60校・ハナフィー派52校・マーリキー派4校・ハンバリー派10校・医学校が3校あったといわれる。これらの学院の創立者はおもに支配者・領主たちであったが,商人・学者・さらには婦人たちも含まれていた。
【イスラーム教育の問題点】マドラサの制度は多くの優れた知識人を産み出す点で大きな貢献をした。そこで高等教育を授かった人々は,さまざまな分野で指導的な地位についたが,この体制が固まるにつれて問題点も生じてきた。それは学問自体の硬直化である。教育の内容・手段が固定化するにつれて,知的環境はしだいに先代の学問を単に踏襲するばかりの権威主義・偏狭さを増大させ,訓詁の学に専念する象牙の塔で知的活力は失われていった。時代の状況に対応することのできない知的沈滞は,イスラーム世界の政治的弱体化とまさに正比例する関係にあった。
ヨーロッパとの接触,西欧によるこの地域の植民地化の経験は,人々に自らの知的伝統,教育の内容・手段に対する自信を喪失させた。開明的と称される支配者たちは,率先して学制を改革し,ヨーロッパ流の教育思想・学校制度を導入することに努めた。19世紀以降,この傾向は日増しに強まり,それとともに旧来の学院,そこを基盤とする伝統的な学者たちの地位は相対的に弱まる一方であった。
教育の西欧化の程度は,地域・国によってかなりの相違がある。しかし西欧化が進むにつれて,いわゆる西欧的な教育研究にたずさわる大学人と,伝統的な学者たちのあいだでは強い確執が生じ,両者の関係は悪化するばかりであった。その間イスラーム教育はもっぱら弱体化の一途をたどったが,ごく最近徐々にこの傾向に一種の変化が認められるようになった。西欧的大学の産物である西欧的知識人は,これまで自分の修得した知識をたずさえて,自らが所属する社会に積極的な貢献をしてこなかった。異文化の価値・教育方法に完全に依存したかたちでの教育体制は,果たして自国の文化的興隆にいかなる貢献をなしうるのか。伝統的な価値・教育方法を新たに見直し,そこに立脚しながら,さまざまな近代文明の摂取をはかることのほうが,結局は文化的再興の近道なのではないか。現在イスラーム世界では,この種の反省にもとづいて,新たなイスラーム教育の可能生が,さまざまなかたちで模索されはじめている。その意味ではイラン=イスラーム革命以後の,大学人と伝統的学者たちの協調の模索は,最も先端を行くものであろう。この種の動きは,体制のいかんを問わず,イスラーム世界のあらゆる地域に顕著にうかがわれる。