●イスラーム
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アラブの預言者ムハンマドによって,610年に創唱された一神教。イスラームとはアラビア語で服従,すなわち唯一絶対の神アッラーの命令への服従を意味し,服従する者ムスリムがイスラーム教徒である。ムハンマドの没後,ムスリムであるアラブがイベリア半島から中央アジアにわたる広大な地を征服して大帝国を建設したので,イスラームはこの広い地域の支配的宗教となった。その後もトルコ人・ベルベル人による征服と,神秘主義教団員およびムスリム商人の活躍により,イスラーム世界はインド亜大陸・東南アジア・バルカン半島・内陸アフリカ・東アフリカにひろがった。現在,全世界のムスリムの数は約7億人と推計され(1984年アメリカ国務省統計),うち90%がスンナ派,残りの10%がシーア派に属する。【コーランの教え】イスラームは,610年にムハンマドに下されたアッラーの啓示に始まり,その後632年に没するまで啓示はムハンマドに下りつづけた。それは書記によって記録され,650年ごろに編集して1冊の書物にしたのが『コーラン』である。神は永遠の昔に天地と人類とを創造し,自然界には四季や昼夜の移り変わりなどの秩序を,人類には来世の救済を保証されるために,現世で何を信じ,いかに行動すべきかという規範を授けた。この規範をシャリーアといい,シャリーアに従って生きることがイスラームである。
『コーラン』の教えは実にさまざまであるが,後世のムスリムの学者はこれをイーマーン(信仰),イバーダート(神への奉仕),ムアーマラート(振舞)の三つに大別する。イーマーンは信仰の内容であるが,後世の学者はこれを六信として定型化した。六信は神・天使・啓典・預言者・来世・予定で,神の唯一性はイスラームの最も重要な教義で,多神崇拝と偶像崇拝の罪はけっして赦されない。『コーラン』は,それに先立つ啓示の書,『モーゼ五書』『詩編』『福音書』と,そこに名のあげられたすべての預言者を認めるが,『コーラン』は先立つ啓典の誤りを正し,ムハンマドは預言者の封印で,彼のあとに預言者が現れることはないとする。
イスラームは信仰さえあればよしとする宗教ではなく,信仰はそれにふさわしい行為によって裏付けられなければならないとする。後世の学者がイバーダートと呼んだのは,現在の宗教学で儀礼と呼ばれるもので,信仰告白・礼拝・ザカート・断食・巡礼の五つに定型化され,これを5柱(5行)と呼ぶ。信仰告白は〈アッラーフ(アッラー)のほかに神なく,ムハンマド(マホメット)はアッラーフの使徒である〉という簡潔なことばを唱えることである。このことばそのものは『コーラン』にみえないが,ほかの啓示宗教と区別されるイスラームの独自性を鋭くいいあてている。イバーダートが神に対する信者の奉仕であるのに対して,ムアーマラートは信者の行動の規範,なかんづく信者同士の人間関係のおきてである。これには嘘をつくな,孤児の財産を貪るな,秤をごまかすなといった倫理的なおきてのほか,結婚・離婚・遺産相続から刑法・商法・身分法,さらには利子取得・賭博・豚肉の禁止から日常の礼儀作法の心得までをも含む。要するに『コーラン』は,唯一の神アッラーとその最後の預言者ムハンマドとを信じ,神に奉仕し,信者同士で正しい人間関係を結べば,来世で永遠の天国の生活が保証されると教える。シャリーアをイスラーム法として体系化し,成文化する仕事は後世の法学者にゆだねられたが,ムスリムはイスラーム法を遵守し,ムスリムの君主はイスラーム法を施行する義務を負う。このイスラーム法の施行されている範囲がイスラーム世界で,9世紀以降のイスラーム帝国の分裂にもかかわらず,ムスリムの君主が領内にイスラーム法を施行しつづけるかぎり,イスラーム世界の統一性は保たれた。イスラーム世界とは,神授の法シャリーアの支配する世界である。イスラームは単に信仰の体系であるだけではなく,同時に生活の体系でもあるといわれる。それは『コーラン』のおきての,このような独特な性格から説明される。
【シャリーアの学問】シャリーアとは神が人類に授けた規範の総体を意味し,それは啓示としてムハンマドに下され,『コーラン』として後世に伝えられた。ムスリムの知的活動のはじまりは,南イラクの二つの軍営都市,バスラとクーファで行われた『コーラン』の言語学的研究であり,それは一方でアラビア語の言語学・文法学・詩学の発達を促すとともに,他方では『コーラン』の神学・法学研究への道を拓くものとなった。アラビア語で学者一般をウラマーというが,最初にウラマーと呼ばれたのはバスラ・クーファ・メディナの神学者・法学者のグループであった。バスラのウラマーのおもな関心は『コーラン』の神学的研究にあり,彼らの指導者ハサン=アルバスリーは,支配者と被支配者との双方を拘束するイスラームの宗教的・倫理的規範の確立を意図し,『コーラン』とムハンマドのことばおよび行為によって確立されたスンナ(慣行)とを手掛かりとして,その規範を追究した。イスラーム最初の神学はこのようなものであり,イバーダートにかかわる『コーラン』のもろもろの教えを五柱として定型化したのは,このハサン=アルバスリーを中心とするウラマーであったにちがいない。
一方,クーファとメディナのウラマーが中心的課題としたのは,国家の法をイスラームの宗教的理念の上に確立することであった。当時の国家の法はアラブ部族の慣習法,メッカ・メディナの前イスラーム時代からの法的慣行,旧支配者であったビザンツおよびササン朝の法の寄せ集めと,カリフまたは総督が行政上の必要から発布する法令からなっていた。クーファ・メディナのウラマーが手掛かりとしたのは,『コーラン』とスンナと彼ら自身の個人的見解であったが,彼らの考えるスンナはハサン=アルバスリーのそれと違って法的慣行であった。彼らはスンナをムハンマドのことばおよび行為に関する伝承で表現したが,それは次に述べる厳密な意味でのハディースではなく,クーファ・メディナそれぞれのウラマーの個人的見解の平均値,つまり地域的イジュマーにほかならなかった。
預言者の町メディナでは,ムハンマドの死の直後から,彼のことばおよび行為に関する伝承,すなわちハディースが語り伝えられはじめた。ウラマーがスンナを確立するために,後世の偽作ではなく,正しく伝えられたハディースを求めるに及んで,ハディース批判の学問が生まれ,真正とされるハディースの蒐集と記録が行われた。法学者シャーフィイーは,『コーラン』,スンナ,イジュマー,キヤースの四つを法源とし,かつこの順序にその権威を認めることによってイスラーム法学の方法論を確立したが,この場合のスンナは,けっしてウラマー個人または地域的ウラマーの恣意的な伝承ではなく,真正のハディースによって確立されたものでなければならないとした。シャーフィイーのもとに弟子たちが集まってシャーフィイー学派が形成されると,クーファの法学者はハナフィー派,メディナの法学者はマーリク派を形成し,最後にバグダードの法学者がハンバル派を形成して,現在までつづくスンナ派の4法学派ができた。
【正統的信仰の確立】六信の第6に予定があげられていることからも明らかなように,イスラームの正統的信仰は最終的には予定説の立場に立った。しかしイスラーム思想界では,8世紀の初めに自由意志説と予定説との論争が始まり,ほぼ9世紀の終わりまで自由意志説が優位を占めていた。最初に自由意志説を唱えた人々はカダル派と呼ばれたが,カダル派がウマイヤ朝政府の弾圧によって衰えたあと,ムータジラ派が彼らの白由意志説を継承しながら,タウヒード(神の唯一性)を中心的課題とする「思弁神学」を展開し,ほぼ10世紀の初めまでイスラーム思想界を支配した。初期のムータジラ派の特徴的な教義は,神の属性の否定と創造された『コーラン』の学説とであった。前者は,神の本質のほかに属性を認めることは,神が外部の何物かに依存しているのを認めることであるとし,後者は,『コーラン』を神とともに永遠であると認めることは,神を神以外の永遠なものと並べる多神崇拝にほかならないとして,いずれもイスラームの最も重要な教義であるタウヒードの純粋さ徹底さを主張したものである。創造された『コーラン』の学説は,827年から848年までアッバース朝の公認の教義となり,この学説に従わない裁判官の追放も行われ,ムータジラ派は全盛期を迎えた。公認取り消しのあとも,イスラーム思想界におけるムータジラ派の地位は揺らぐことなく,9世紀の後半にはタウヒードと並んで,ヘレニズム的観念での神のアドル(正義)が強調され,彼らの思弁の方法論として論理学(アリストテレス)が取り入れられた。バイト=アルヒクマでギリシア語文献が組織的にアラビア語に翻訳されはじめると,イスラーム思想界はギリシア哲学の強い影響を受けることになった。無からの創造を信じる宗教と,無からは何物も生まれないと主張する哲学とは,本来決して相容れない。イスラーム哲学の体系を完成したといわれるイブン=シーナー以後,宗教と哲学とは完全に快を分かった。しかし,アラブ最初の哲学者キンディーとムータジラ派は,ともに宗教と哲学の調和を確信してやまなかった。
だがイブン=ハンバルをその代表者とする伝統的なウラマーは,早くも哲学に異端の臭いを嗅ぎつけ,論理学それ自体は思考の方法論にすぎなかったとはいえ,アリストテレスの論理学を方法論としたムータジラ派に鋭い非難を俗びせかけつづけた。ウラマーの影響下にあった一般の信者は,最初からムータジラ派の思弁とは無縁であり,安心して拠ることのできる信仰の指針を求めつづけていた。ムータジラ派の学者アシュアリーは40歳のときに回心してムータジラ派の学説を放棄し,伝統的なイブン=ハンバルの教えに従うことを宣言したが,方法論としては,彼がムータジラ派から学んだ合理的な方法論を守った。保守的なウラマーも彼がイブン=ハンバルの教義に従ったことに満足し,中世ヨーロッパのスコラ学と同じく,啓示を理性によって支持するイスラームの正統的神学が成立した。このようにして10世紀にはスンナ派の法体系と神学とができあがったが,同じ10世紀にブワイフ朝の武家政治が始まり,それは11世紀にセルジューク朝によって継承され,カリフはいっさいの政治的権限を奪われ,イスラーム法の施行に責任を負いえない立場に追いこまれた。それを最初に唱えたのが誰であり,またいつのことかは明らかでないが,正統派のウラマーは11世紀ごろ〈イジュティハードの門は閉ざされた〉といい,法と教義をこの時点で固定化し,それ以後,新たに法を定め,新たな教義を唱えることをやめた。
【スーフィズム】イスラーム神秘主義者をスーフィー,神秘主義をヨーロッパの造語でスーフィズムという。スーフィズムの起源については諸説があるが,初期の禁欲主義が神への愛に昇華し,それにファナー(神との合一の恍惚境)とマーリファ(神についての神秘的な知識)の要素が加わり,その境地に達する修行の方法を整え,10世紀に成立したといえよう。それはなんらイスラームの信仰に抵触せず,正統的神学体系のまだ確立していなかった9世紀の末まで,信仰以上に理性を尊重したムータジラ派への対抗上,伝統的なウラマーもスーフィズムに対して好意的態度さえ示した。事態が一転したのは,ハッラージュがウラマーの決定によって十字架にかけられた922年からであり,ウラマーはとくに実践的スーフィーの活動に,ウラマーの統制を超えた大衆運動の危険をみて取ったのである。しかし,スーフィズムが直接神と交わりたいという一般信者の切なる願いに支えられている以上,ウラマーもこれを抑圧する有効な手段をもたず,ハッラージュの処刑以後,ウラマーとスーフィーとのあいだに緊張した関係がつづいていた。
アシュアリー派の神学者ガザーリーは哲学の造詣が深く,とくにイブン=シーナーの哲学を鋭く批判したが,37歳のときに回心してスーフィーとなり,諸国を放浪して修行を積み,スーフィーの最高の霊的体験としてのファナー以外に信仰の真の基礎となりうるもののないことを悟った。アシュアリーがムータジラ派の方法論を取り入れて正統派の神学を確立したのと同じように,ガザーリーははるかに進んだイブン=シーナーの哲学を批判的に取り入れ,いっそう高度の正統派の神学体系を完成した。しかし,彼は神学の限界をよくわきまえ,スーフィーの霊的体験の上に正統派の神学を再建した。同時に彼はスーフィズムが汎神論に陥る危険をも承知し,厳密な哲学的概念と用語でこれを武装したのである。スーフィーがファナーの境地にいたるには修行が必要であり,9世紀ごろから一人の師のもとに集まったスーフィーが集団で修行を積むようになり,最初は人里離れた庵や洞窟が修行場であったのが,10世紀には都市に修行場が設けられるようになった。ガザーリーが正統派の信仰の中にスーフィズムの修行と体験とを正しく位置づけたことにより,ウラマーとスーフィーとの緊張は解け,彼の没後1世紀のあいだにスーフィーの会衆は組織的な教団に成長した。教団は初代の師を開祖とするスーフィ一の学派といってよく,親教団から子教団・孫教団へと分裂して数をふやし,とくに在家のまま修行に参加できる道が開けてからは,教団の組織とそれぞれの教団の修行場の網の目はイスラーム世界全体にひろがった。異教徒の改宗にとくに熱心だったのはこれらの教団員であり,彼らはイスラーム世界の境域を超えて異教の人々をムハンマドの福音に誘った。もちろん征服がなかったわけではないが,トルキスタン・インド亜大陸・東南アジア・内陸アフリカのイスラーム化は,このような教団員と,しばしば教団員でもあった商人たちの献身的な努力のたまものであった。
【イスラームの諸宗派】イスラームで宗派と呼ぶことのできるものはスンナ派と,それぞれの分派を含むハワーリジュ派・シーア派である。スンナ派は一貫してムスリムの圧倒的多数を占めつづけ,大まかな地域ごとにハナフィー・マーリク・シヤーフィイー・ハンバルの4法学派に分かれるが,それは細かな法解釈の違いにすぎず,分派とはいえない。ただ,現在ではハンバル派の実態はないに等しく,18世紀にこれから分かれ出たワッハーブ派の名をハンバル派の代わりにあげることもある。
スンナ派はしばしば正統派と訳され,そのためハワーリジュ派・シーア派は異端とみなされがちである。だが,イスラームにあっては,キリスト教の場合のように正統・異端の問題に決着をつける公会議は存在せず,また,正統教義の確立のあと,それへの抵抗・不服従として異端が生じたのでもない。そればかりか,ハワーリジュ・シーア派のおこりは,スンナ派という観念および実体の成立よりはるかに古く,正統カリフ時代からウマイヤ朝初期にかけてのカリフの選出をめぐる意見の違いから生じた。つまり,イスラームにおける宗派の起源は政治的なものであり,そのときの少数派が自らの姿勢と主張を正当化するために理論武装をしたことが,彼らを政治的党派から宗派へと発展させたのである。ハワーリジュ派が自らを武装した理論は,カリフは特定の家系のものである必要はないとする君主論・律法主義,さらにそれから発展したことであるが,大罪を犯したものはムスリムたる資格を失うという考え方であり,ハワーリジュ派のなかでも最も過激なアズラク派は,ムスリムたる資格を失ったものは殺すべきであるとして殺戮をほしいままにした。シーア派にあっては,イスラーム世界の最高の主権者イマームはアリーの子孫でなければならず,彼はカリフと違って宗教・政治の両権を握り,しがも不可謬であるとするイマーム論,イマームをメシアとみなす考え方,さらに一時姿を隠したメシアが再臨するという考え方と結びついた隠れイマーム論であった。初期のシーア派には,ムフタールを指導者としたカイサーン派,アッバース家運動への道を開いたハーシム派,ファーティマ朝を開いたイスマーイール派など,主張も行動も非常に過激なものがあった。イスマーイール派の一派は十字軍将兵によって暗殺者教団と恐れられ,最も極端なシーア派の分派には,アリーおよびその子孫のイマームを神の化身とみなすものもあった。しかし,現在ではアラウィー派・ドルーズ派・ホジャ派(インド・東アフリカのニザール派)など少数の集団が残るにすぎず,シーア派の圧倒的多数は現在イランの国教とされる十二イマーム派に属する。十二イマーム派が宗派としての実体を備えるようになったのはブワイフ朝の統治下においてであり,セルジューク朝のもとでは都市の下層民や山間僻地に追いつめられたが,イル=ハン国,ティムール朝の時代に勢力を盛り返し,サファヴィー朝の国教とされるに及んで,十二イマーム派とイランとの密接な関係ができあがった。なお,ハワーリジュ派は現在,アラビア半島のオマーンとイエメン,北アフリカのアルジェリアと東アフリカのザンジバルに少数の信者が残るだけである。
【近代イスラーム】オスマン帝国・ムガル帝国・サファヴィー朝がイスラーム世界の中心部を分割して支配していた16〜17世紀は,イスラーム世界の相対的安定の時期であったといえよう。しかし,18世紀の半ばをすぎるとヨーロッパ諸国のイスラーム世界への進出が始まり,その心臓部にあたるエジプトも1798年にナポレオンの率いるフランス軍によって軍事占領され,19世紀にはヨーロッパ諸国のイスラーム世界支配が決定的となった。シャリーアの支配の上に成り立つイスラーム世界は,今やずたずたに寸断されて,その少なからぬ部分が異教徒の法のもとに置かれた。力には力を,ということで,エジプトのムハンマド=アリー朝やオスマン帝国は近代化・西欧化政策に奔ったが,その結果は国をあげてのヨーロッパ資本への隷属となった。このエジプトとトルコだけでなく,インドでもイランでも,ムスリム政府をパイプにしてヨーロッパ諸国の政治的・経済的進出のなされたことが,既存の秩序のもとで安定していたムスリム社会に混乱をひきおこし,ひいては人々に無力感や絶望感を味わわせた。事態を深刻に受けとめたムスリムは,現在の危機は国家・民族の危機というよりは,むしろイスラームそのものの危機であると考えた。彼らは危機を打開するためにイスラームの改革を求めたが,それは栄光を誇ったイスラーム帝国の原点への復帰,すなわちサラフィーヤ運動となっていったのである。
サラフィーヤ運動は単なる復古主義でもなく,またいわゆる伝統主義でもない。なぜなら,それは復帰すべき原点が何であるかを鋭く問うものであり,イジュティハードの門の閉ざされた11世紀以降の伝統的イスラームの価値観を否定するものだからである。その点で,18世紀の中ごろアラビア半島の奥深くに始まったワッハーブ派の運動こそ,サラフィーヤ運動の先がけであった。直接・間接にワッハーブ派の影響を受けた同じような運動はインドのムジャーヒディーン運動とファラーイジー運動,インドネシアのパドリ派,リビアのサヌーシー派,スーダンのマフディー派などの運動にみられ,そこには原点への復帰の思想が侵略者への抵抗の運動を支えている。サラフィーヤ運動に理論的根拠を提供したのはアフガーニーで,彼は活発な文化的・政治的活動によってサラフィーヤの理論を実践に移した。アフガーニーの弟子ムハンマド=アブドゥフは,イジュティハードの門の再開を求め,中世的イスラームの伝統の否定の上に,現状に応じて法そのものを作り変えるべきだと主張し,その弟子ラシード=リダーはサラフィーヤ運動実践のための行動プログラムを準備した。現代イスラーム思想の二大潮流である近代主義と原理主義は,それぞれムハンマド=アブドゥフとラシード=リダーに発している。エジプトのムスリム同胞団とパキスタンのジャマーアテ=イスラーミーは,ともに原理主義大衆運動であったが,近代主義政策を掲げるそれぞれの政府によって弾圧された。しかし,ナセリズムの高揚と挫折のあと,近代化のひずみのなかから原理主義大衆運動は再び活発化し,イラン=イスラーム革命も,イマームの不在のあいだウラマーが政治を預かるというシーア派独特の政治論に支えられているが,本質的には原理主義大衆運動である。
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