●出雲 いずも
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現在の島根県東半部にあたり,山陰道に属する上国。『延喜式』の規定では,日程上り十五日,下り八日の中国。国名は,素盞嗚尊の出雲八重垣の神詠「出雲八重垣」に由来するというが,『崇神天皇紀』の〈玉萋鎮石(たまむしづし)〉の萋によるという説もあり,定説を欠く。733年(天平5)『勘造出雲国風土記』では9郡61郷,余戸4,駅家6,神戸7,官社184,非官社215。『式神名帳』では大和・伊勢についで多く,神の国の称ある所為である。出雲の古墳は470カ所余りで,東部には古式古墳である方墳・前方後方墳が著しく多い。松江市山代町の二子塚古墳は,長さ90m,高さ9m 2段築成の前方後方墳で,隍をめぐらした出雲最大のものである。後期古墳は出雲西部に多い。これは出雲の文化発展が東部意宇(おう)の平野から斐伊川・神門川下流の冲積地へと進展したためである。意宇の岡田山1号墳で出土した鉄刀銘には「額田部臣」とあるが,応神天皇の皇子額田大中彦命の名代(なしろ)であると考えられている。意宇の有力な首長出雲臣の一族であろう。5世紀初頭,大和朝廷の勢威は出雲東部にも及んでおり,服属した地方の首長には臣(おみ)姓が与えられた。出雲臣は出雲各郡の郡政に関与しており,額田部臣は大原郡の少領として出雲風士記に署名している。この大原郡神原神社古墳からは,1976年(昭和51)に景初3年(769)銘の三角縁神獣鏡が発掘され世の注目をひいた。1959年(昭和34)には簸川郡斐川町荒神谷遺跡で350本の銅剣が出土されている。武器型銅剣の出土は,これまで北九州と瀬戸内に限られており,福岡県春日市での44本の出土が最多であった。これに対し出雲出土のものは桁はずれに多く,祭祀用であったと思われる。1979年(昭和54)鳥取県国府町の梶山古墳で発見された彩色壁画,福井県若狭の鳥浜貝塚,石川県能登の真船遺跡など,日本海沿岸の潮流に乗っての文化伝播は,古代出雲文化研究の鍵となると思われる。『出雲国風土記』意宇郡の伝承の巻頭に置かれている八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)の国引き説話では,新羅の国から,能登の珠洲(すず)の岬から陸地を曳いてきて縫いつけ,今日の島根半島としたという。また美保の御穂須々美命(みほすすみのみこと)は,〈天の下造らしし大神〉が高志(こし)の国の神奴奈宜波比賣(ぬなかわひめ)を娶して生んだ子神だという。これは『和名抄』にいう越後頸城郡沼川郷の奴奈川神社の神である。日本海沿岸の文化交渉を物語る伝承である。【神話伝承】出雲には『古事記』や『日本書紀』にみるような天地開闢の話もなければ,神による国生みということもないが,八束水臣津野命の国引きの話があり,この神が「八雲立つ出雲の国」といわれたので,出雲という国名がおこったと『出雲国風土記』は伝えている。そして,天の下をつくった大汝命(おほなむちのみこと)の話が国内各地に伝えられ,大国主神として出雲大社の祭神となっている。また『古事記』や『日本書紀』に大きな足跡を残す健御雷神(たけみかつちのかみ)や健御名方神(たけみなかたのかみ),事代主神(ことしろぬしのかみ)などについても『出雲国風土記』は語るところがない。『古事記』や『日本書紀』の神代伝承は中央大和の立場で編集されたものであり,出雲では独自のものをもっていたということなのである。風土記意宇部の条に出雲神戸の記述があり,熊野大社と出雲大社2所の神戸だという。熊野大社の祭神は伊射那伎(いざなぎ)の日真名子(ひまなご),櫛御気野命(くしみけぬのみこと)で,この神名から穀神であることがわかる。大国主神も父神素盞嗚尊から,宇迦の山の山本に鎮まりおるようにいわれたと『古事記』にある。宇迦もまた穀物を意味する。すなわち出雲の東西の大社はともに穀神ということなのである。出雲の斐伊川の形成する広大な冲積平野,『日本書紀顕宗天皇紀』にいうように〈出雲は新墾(にいはり)〉である。出雲風土記の神話伝承は,豊かな実りを期待する農民の真摯な心を汲み取ることができるのである。
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