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●イスタンブル

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 ボスポラス海峡を隔てて,アジアとヨーロッパにまたがる歴史的商業・文化都市。トルコ共和国最大の都市で,人口は約250万(1975)である。

【コンスタンティノポリス】前7世紀中ごろ,ギリシア人の植民都市として建設され,ビサンティウムと名づけられた。330年,ローマ皇帝コンスタンティヌスがここに都を移すと,彼の名にちなんでコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と呼ばれた。また,ビザンティウムという古い名でも呼ばれていた。イスラーム史料には,コンスタンティニヤ・ブザンティヤと記されている。ローマ帝国の分裂以後,ビザンツ帝国の首都として繁栄し,東方キリスト教世界の中心となった。そして,ペルシア人・アラブ人・スラブ人などのヨーロッパ侵入を阻止する防塞の役割を果たした。また,イスラーム勃興以来,この都市は,イスラームの征服の大きな目標とされてきた。11世紀ごろから,イタリア人の東方進出によって衰えはじめ,1204年,第4回十字軍によって占領されると,中世を通じて蓄積されてきた富が略奪され失われてしまった。

【イスタンブルの名】14世紀中ごろから,オスマン帝国はバルカンに進出し,コンスタンティノープルの包囲態勢を整えたが,15世紀初め,アンカラの戦いで敗北した。そしてオスマン帝国は,一時,内乱状態となった。しかし,やがて統一を回復し,1453年5月,若いスルタン,メフメト2世は,ついにコンスタンティノープルを陥れ,イスラームの宿願を果たした。メフメト2世はこの都市を首都とし,以後,ここはトルコ風にイスタンブルと呼ばれるようになった。大砲が初めて威力を発揮したのは,オスマン帝国のコンスタンティノープル攻略のときであったといわれており,「大砲門」の地名などにその名残りをとどめている。

【イスラーム文化の中心】オスマン帝国による征服は,イスタンブルをイスラーム文化の中心地にすることになった。すなわち,バグダード・ダマスクス・カイロ・サマルカンドなどの旧イスラーム文化の中心地から,多数の学者・芸術家・政治家・職人らがこの都市へ移住し,イスラーム文化の中心地を西方に移動させることになった。また,ここを拠点にしてイスラームがバルカン・東ヨーロッパ・南ロシア方面へと伝播することになった。1517年,セリム1世がエジプトを征服し,いわゆるスルタン=カリフ制を敷くと,イスタンブルはオスマン帝国の首都からイスラーム世界全体の政治的中心へと発展した。中央アジア・インド・東南アジアなどのイスラーム諸王朝の使節が往来し,各地から商人が集まって繁栄した。16世紀中ごろ,イスタンブルの人口は約45万と推定され,東西貿易・南北貿易の中継基地として世界経済の中心としての役割を果たした。

【トルコ共和国の中心】18世紀末以後,オスマン帝国が衰退すると,イスタンブルはカイロ・テヘランなどとともに,被支配諸民族の独立運動の中心となった。また,東方問題をめぐる列強の抗争の舞台,列強による植民地支配に対するムスリム諸民族の反帝国主義運動の拠点ともなった。第一次世界大戦の結果,1918年〜23年まで連合軍に占領されていたが,1923年,トルコ共和国が成立すると,首都はイスタンブルからアンカラに移った。首都としての地位は失ったが,現在でもイスタンブルはトルコ共和国の経済・文化の中心地として栄えている。市内にはビザンティウム時代の城壁・アヤ=ソフィア大寺院・スレイマン寺院・トプカプ宮殿など,ビザンツ文化やイスラーム文化の遺跡が多く残っている。

〔参考文献〕前嶋信次『東西文化交流の諸相』1971,同刊行会

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