●イースター島 イースターとう
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南緯27度10分・西経100度20分の南太平洋東部にある孤島。チリ領であるから正式名称はスペイン語のイスラ=デ=パスクア。陸地面積は約170平方km,人口2,130人(1983)。2等辺3角形の孤島でチリのサンチャゴとは3,790kmも離れ,最も近い西方のピトケアン島も約1,600km離れている。南西端にラノ=カウ・中央北部にラノ=アロイ・東南部にラノ=ララクの三つの死火山があり,それぞれ火口湖をもっている。島民はラノ=カウの北側にあるハンガ=ロアの村に集中している。最近の考古学的調査の結果,この島には西暦400年ごろから住民がいたと思われる。それがポリネシア人だったか南アメリカからのインディオ系だったかは明らかでない。しかし,1722年のイースターの日に,オランダ人航海者ヤコブ=ロッケフェーンが来航するまでのあいだに,島内ではモアイといわれる巨大な石像が,ラノ=ララクの石材で1,000件近くも彫刻されたが,オランダ船来航の時代を推定されるころに,ハナウ=エエペ(長耳族といわれる)とハナウ=モモコ(短耳族といわれる)の全島的な戦いがおこり,モアイの製作は放棄されたと考えられる。1770年にスペイン艦隊が来航してこの島の領有権を宣言し,1774年にはキャプテン=クックが来航したが,当時の島民は明らかにポリネシア系であった。その後19世紀の中ごろまでにヨーロッパ各国の航海者が来訪して,謎の巨石文化についての観察を残している。1862年とその翌年にペルーの船団が来て,当時的3,000人いたと推定されたこの島から,1,000人前後を奴隷労働者としてペルーに連れ去った。各国の外交的・宗教的な抗議の結果,ペルーは1864年に生き残りの島民を送還したが,それまでに多くの島民が死亡し,さらに天然痘にかかっていた島民が帰ったために,島の人口は激減し,島の歴史を伝承してきた故老や伝統的神官は絶滅してしまった。1860年代にはアフ(石壇)の上に直立しているモアイはまったく無くなった。1864年に南アメリカからキリスト教の伝導に来たエイロウ修道士は,ロンゴロンゴといわれる文字に似たものが彫られた木片をみつけたが,その後島民がキリスト教徒になると,そうした木簡は破棄されたり隠されたりしてしまった。その後一時タヒチから来たフランス人が,島の土地を買って独裁的な圧政をしたため,島の人口はわずか10人になってしまった。1888年にチリがこの島を領有して,1870年代からタヒチ系混血人サーモンが経営していた牧羊業をチリ企業が継承した。その後今日までこの島はチリ領であるが,現在はこの島は単独の州という地位にある。軍人の知事が行政権をもち,島民から任命された市長が補佐するという形であったが,最近は文民知事にかわり,島民はチリ国民としてのすべての権利を認められている。イースター島の謎の文化について最初に本格的な学術調査を行ったのは,イギリスの人類学者キャサリン=ルートレッジ女史であった。第一次世界大戦開戦前から約17カ月間この島に滞在した彼女は,『イースター島のミステリー』を出版したが,ほかの草稿はなぜか紛失した。その次の重要な学術調査はベルギーの民族学者ラヴァシェリ,フランスの考古学者メトロウ,チリの科学者ドラプキンが,1934年に行ったものである。その後トール=ヘイエルダールによる巨石文化の南アメリカ渡来説をめぐって,欧米やチリの学者間で興味深い学説が,イースター島のモアイやロンゴロンゴについて展開されている。