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●石山本願寺 いしやまほんがんじ

アジア 日本 AD1496 室町時代

 1496年(明応5),本願寺第8世蓮如が創建した寺。北陸吉崎を退去したのち,近畿の布教に力を尽くした蓮如が山城山科に居を占めたのは1478年(文明10),ここに山科本願寺の造営を計画し,御影堂・阿弥陀堂そのほかの堂舎を建て,1483年(文明15)には一応完成をみるにいたって,1496年さらに新たに摂津東成郡生王庄大坂に寺地を相して坊舎の建立に着手してできあがったのが石山本願寺である。従来,今の大阪城本丸の地がその遺跡であるといわれてきたが,難波宮跡の発掘の結果,その近くの法円坂町あたりともいわれる。工事中,蓮如は堺の坊舎から往来して,監督したという。北の淀川,東の大田川に囲まれた景勝にして要害の地であり,また瀬戸内海に通ずる水上交通の要衝でもあった。蓮如はこの地を好んだが,蓮如の没後,後を継職した実如はさらに坊舎の整備につとめ,1542年(天文11),阿弥陀堂を造営し,在来の堂を御影堂と改めた。またそのあいだ,いつ戦禍が及ぶかわからない当時の状勢にかんがみ,寺域を拡張して堀や壕をほり,塀を造って要害に心をくばった。やがて周辺に町家も増加して寺内町の町数も増え,繁栄の道を辿るが,実如の後を継いだ顕如の1564年(永禄7)12月26日,大坂の大火により本願寺の伽藍堂舎ことごとくが灰燼に帰した。町内の焼失戸数900,死者100人にのぼったと伝える。しかし本願寺は翌1565年1月23日には阿弥陀堂の再建が始まり,御影堂も年内に完成している。しかしこのあいだ,実如が越前朝倉氏と和議を結んで保たれた和議が,朝倉氏の加賀侵入によってひびを生じた。顕如が継職した翌年1555年(弘治l)である。顕如は紛争に巻きこまれることを避けつづげたが,ついに1565年(永禄8),武田信玄と盟約を結ぶ仕儀に追いこまれ,やがて越前朝倉,近江浅井・六角など諸氏とも盟約を結ぶにいたった結果,天下を制覇する機会をねらっていた尾張織田信長が1568年(永禄11),近江に六角氏を攻めたことを機として,本願寺は信長と対抗することとなった。将軍義昭を奉じて入洛した信長は本願寺に上納金を命じ,本願寺は直ちに納めているが,一説には本願寺の寺地を要求したともいわれる。対応に苦慮する難題をもちかけ,応じないときは寺を破却するというものであったことは確かである。顕如は門徒の奮起を要請し,一方,信長は三好衆を攻め,これが守る野田・福島の塁が落ちたときは本願寺も危険に陥ることは明らかであったから,ついに信長攻撃を決定するにいたった。ために信長は苦戦を強いられ,一時は和議斡旋を朝廷に奏しているが,朝倉・浅井の出兵によって信長は大坂撤退を余儀なくされている。しかしその後,信長との和解が成立したものの,信玄の急死,朝倉義景浅井長政の敗死によって本願寺が盟約した一角が崩れ,信長の伊勢長島の門徒攻略によって衝突はもはや避けられないものとなった。信長の大坂攻撃は1575年(天正3),いったんは和議が成立しているが,翌1576年4月,一時の和平は破られ,信長は大坂四方に10塁を設けて包囲した。このときより籠城5年,1580(天正8)4月開城まで,本願寺は持久戦に入った。そのあいだ,毛利輝元による糧食の援助,上杉謙信との和睦による上洛の要請,紀伊雑賀衆の参戦と活躍などがあって持久戦を可能にしたけれども,信長は本願寺の孤立化を徐々に成功させ,また朝廷も信長との和睦を勧めたから,本願寺は大坂を退去することによって講和することとなった。しかし顕如の嗣法教如は信長の誓紙に表裏二心があるとして大坂退去に反対し,このために寺内の意見は二分し,顕如は大坂を退去したが,教如は残って退去しなかったから,信長は攻撃を再開し,教如をしてついに退去を止むなくさせている。教如は8月2日退去にさいし,火をしかけ,坊舎はことごとくく焼失した。蓮如が大坂に坊舎を構えてから85年,再建より18年目,大坂本願寺も灰燼に帰して終わった。世にこの戦いを石山合戦(石山本願寺一揆とも)という。

〔参考文献〕増山顕珠編さん『本願寺史』第1巻,1961,浄土真宗本願寺派宗務所

笠原一男『一向一揆の研究』1962,山川出版社

井上鋭夫『一向一揆の研究』1968,吉川弘文館

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