●イシハ
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海西女真出身の明初の宦官。15世紀前半(永楽〜正統年間)の明の東北経営に重要な役割を果たした。亦什哈・伊実哈・易信・亦信などとも記される。永楽帝は即位すると積極的に東北経営に乗り出し,黒竜江下流の奴児干(ねれぎん)地方へ亦失哈を派遣。1411年(永楽7)兵1,000余人,巨船25艘を率いて奴児下都司を設立した。1413年(永楽11)には永寧寺を建設しこれを記念して永寧寺碑を建てた。また1432年(宣徳7)の出巡は,翌年にまで及び永寧寺を重建し重建永寧寺碑を建てるなど,その出巡は前後7回に及んだ。1435年(宣徳10)以後は鎮守遼東太監として,女真との交渉やオイラートの也先(えせん)に対する防御にあたった。しかし,1449年(正統14)の土木の変の後,宦官に対する批判の高まりや女真がうりゃんはい兀良哈三衛と結び明と敵対したために,海面女真出身を忌避され,翌景泰元年に北京に召還された。亦失哈の奴児干都司建設は女真の牽制と貿易を目的とし,永楽・宣徳期の東北経営の発展を示すものであり,明朝の多民族国家としての一面を示すものでもあったといえる。以後黒竜江流域は中国の彊域として意識されるようになったが,ウラジオストークの極東大博物館に所蔵される永寧寺の両碑は,その現存する証拠ともいえよう。