50音順    検 索

●囲碁 いご

AD 

 黒石と白石を交互に打ちすすめ,盤上の“地”の多寡を争う室内ゲームで,原則として黒・白2人の対局者によって行われる。囲碁は戦術的にも戦略的にも底が深くかつ自由な構想を盤上に表現できるところから,年齢・性別・国籍を問わず幅広い層に親しまれている。

【名称】“棋”“棊”“碁”は同一の系統に属し,キは漢音,ゴは呉音である。“棋”は本来黒白2色の駒を用いるゲームを総称し,“囲棋”(囲碁)のほかにもいくつかの棋類がかつて存在した。最初は木片や竹を駒に用いたが,石を使い始めて“碁”の字が生まれた。将棋は元来“象戯”であって棋類に属さないが,将棋と書かれるようになって“棋”の意味に多少の変化を生じている。

【歴史】囲碁の起源については諸説があるが,紀元前10世紀ごろに中国中枢部でその原型がつくられていたとする考えが有力である。“囲棋四千年”と称し,・帝・舜帝に囲碁の起源を結びつけるのは聖人付会説の域を出ない。碁は易と深い関係があり,易が政事祭事の公的役割を果たしていたのと同様,碁の原型もまた軍略その他の公的任務を帯びていたと推測される。班固(32〜92)の〈之(碁)ヲ行ウハ人ニアリ,ケダシ王政ナリ〉の一文は原始碁の政事的軍事的役割を暗示している。しかし武器・軍略の発達とともに原始碁は形骸化し,遊戯への道が始まった。春秋戦国時代には固有の遊戯として確立していたことは,種々の文献からもうかがえる。中国では貴族階級の高雅な趣味として発達し,唐代初期には17路盤から現在の19路盤に定着した。

 日本への伝来は5,6世紀ごろか。おそらく朝鮮半島経由であろう。『隋書東夷伝は〈(倭人)棊博,握槊(あっさく),樗蒲(ちょぼ)ノ戯ヲ好ム〉と,7世紀初頭の日本人の碁・双六・ばくち好きを伝えている。碁を高雅は清戯とみる“琴棋書画”の気風はそのまま伝えられ,奈良・平安時代を通じて碁の打ち手は貴族・僧呂・宮中の女官たちであった。宮廷の御前試合が六国史のそこここに記載され,王朝文学は碁を上流生活の一部として取りあげている。そうした環境のなかから碁の名手たちが輩出するが,彼らがプロフェッショナルな存在であったかどうかは疑わしい。近世的な意味での碁のプロフェッショナルは日海(初代本因坊算砂1559〜1623,永禄2〜元和9)を待たねばならない。のちに碁の代名詞となる“本囚坊(ほんいんぼう)”は日海が育った京都寂光寺内の塔頭の一つ。碁の技に秀で,織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3代に仕えた。信長から〈その方はまことの名人〉と称えられたのが“名人”の起こりとされている。徳川幕府は寺社奉行直轄のもとに“碁所”(ごどころ)を設け,算砂は最初の名人碁所に就いた。家元制も確立し,本因坊・井上・安井・林の4家が“官賜棊院”として扶持を受ける。将棋方の3家(大橋本家・大橋分家・伊藤家)を含めて,本因坊はたえず筆頭の地位にあった。

 段位制度は4世本因坊道策(1645〜1702)の時代に固まった。初段から九段(名人)の区分は現代も用いられている。名人のみが碁所に就く資格を持ち,名誉と利権を伴う碁所をめぐって,棊院4家はときに実力で,ときに政治工作によって抗争する。碁所をめぐる官命の勝負が争碁(そうご)である。将軍上覧の“御城碁(おしろご)”は年1回,11月17日に江戸城で打たれた。あらかじめ下打ちし,その間は外部との行き来を禁じられたので,「碁打ちは親の死に目に会えない」といわれた。文化文政から幕末にかけての半世紀は日本囲碁史上の第1期黄金期にあたり,本因坊丈和(1787〜1847)・本因坊秀和(1820〜73)・本因坊秀策(1829〜62)などの名手を輩出している。豪農・豪商のみならず,碁は市井の庶民にも行きわたり,清戯の気風はしだいに薄れていった。

 明治維新とともに家元は禄を失う。碁界の衰退を打破したのが坊門直系の村瀬秀甫(1838〜86 18世本因坊)。1879年(明治11),近代的な囲碁結社方円社”を設立,本因坊秀栄(1852〜1907)の旧勢力と対抗共存する。方円社の組織と事業は,のちの“日本棋院”“関西棋院”にも受け継がれた。大正時代に入ると碁界合同の機運が生まれ,1924年(大正13),日本棋院が難産の末,誕生した。1950年(昭和25)に関西棋院が独立するが,碁界の衰微につながらなかったのは,囲碁がすでに国民的な財産となっていた証左であろう。世襲制最後の本因坊である21世本因坊秀哉(しゅうさい)(1874〜1940)は,1936年(昭和11)本因坊の名跡を毎日新聞社に譲渡,同社は“本因坊戦”を開始した。ここからプロ碁界は実力本位の選手権争覇の時代に入っていく。戦前から戦後,さらに昭和40年代からの第2期黄金時代にかけて,時代を画した棋士に,呉清源・木谷実・橋本宇太郎・高川格・坂田栄男・藤沢秀行の名があげられるが,なかでも呉と坂田は昭和囲碁界の双璧であった。アマチュアの囲碁人口は1965年ごろから急上昇し,“1000万囲碁ファン”を合言葉に碁は隆盛の一途をたどっている。中学・高校のクラブ活動に取りあげられ,青少年の室内ゲームとしても定着しつつある。また,1979年(昭和54)から毎年世界アマ選手権戦が開かれ,碁の国際化が軌道にのった。プロ棋士の制度があるのは現在,日本・韓国・中国・台湾の東洋4カ国であるが,欧米の囲碁人口は着実にふえている。国際化の面で,囲碁がチェスに追いつく日はけっして遠くないであろう。

【盤石】用具は碁盤・碁石(黒と白)・碁笥(ごけ−碁石の容器)で1セット。碁盤はカヤ・イチョウ・ヒノキ・カツラなどでつくられるが,上質のカヤは品不足で高価である。一般に板目よりも柾目のものが好まれる。盤面の寸法は綻45.5cm,横42.4cmのやや縦長。19路の線と星は漆で盛り,脚は4本。椅子席用に脚なしの板盤も多く用いられている。碁石の数は黒181個,白180個。黒は那智黒,白は日向産の蛤が高級品だが,蛤は極端に品薄のため,外国産のものが使われるようになった。大衆品としてはガラス・シャコ貝・プラスチック・黒曜石・大理石など。碁笥はクワ・サクラ・クリなどでつくられる。プラスチック製の碁笥も広く普及している。盤石の材質は他にも多いが,極端な話,紙上に盤の線を引き,ボール紙製の石でも碁は打てるのである。盤上は図のように縦横19路,その交点は361(19×19)ある。実戦にさいしては石を交点上に置き,マス目の中に置くのではない。一つ一つの交点を“目”(め)といい,9個の黒い点を特別に“星”と呼ぶ。中央の星は“天元”(てんげん)である。なお,碁盤は正式には19路であるが,入門者用に13路盤・9路盤もつくられている。

【競技法】技量が同程度なら“互先(たがいせん)”で,黒から先に打ち始める。碁は先番有利であるから,黒は五目半のコミを出し,公平を期す。そのさい黒は盤面で6目以上残さなければ勝ちにならない。コミを出さないゲームは“定先(じょうせん)。さらに技量に差があれば“置碁(おきご)”で打つ。技量が下の者=下手(したて)が黒を持ち,技量差に応じて石を置く。置き場所は盤上の星で,たとえば星全部に石を置けば9子局,“星目(せいもく)”の碁である。置碁は第1着を白から打ち始める。着手はかならず目の上に置き,いったん打った石は移動させてはならない。また着手は交互に行い,2手連続着手も着手放棄も違反である。その他,知っておかねばならないいくつかのルールがある。碁の最終目標は地の多寡であるが,途中,石の死活を含めて広い意味の攻防がある。挽回不可能の損失をこうむり,一方が投了すれば,その碁は“中押し(ちゅうおし−中押し勝ち・中押し負け)”となる。最後まで仕上ければ“作り碁”。コミなしの碁で双方の地が同数なら,“持碁(じご)”で,引き分けに準ずる。

〔参考文献〕瀬越憲作・木谷実・坂田栄男『囲碁百年1-3』1968〜69,平凡社

渡部義通『古代囲碁の世界』1977,三一書房

林海峯・石田芳夫『新装版・囲碁入門』1978,日本棋院

01