●生花(活花) いけばな
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茶道などとともに日本独自に発達した生活芸術で、生花・挿花・瓶花などとも書き、立花、なげいれ、盛花の総称である。花を器に入れて鑑賞する習慣は、とりたてて日本に限ったものではないのに生花のみが特筆されるのは、その方式に法式性がつらぬかれ、造形美と精神性にとりわけ秀でているからである。農耕民族である日本人の祖先の自然崇拝は常緑樹である榊や松を神の依代とみなし、実りをもたらす花に霊力が宿ると考えていた。この観念は仏教の伝来とともに仏前にそなえられる供花にうけつがれていく。また、平安貴族の洗練された審美眼は、屋外の花を器に盛って愛でる習慣のあったことは、たとえば『枕草子』に「勾欄のもとにあをき瓶のおほきなるをすゑて桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば……」(清少納言)などとあるのをみても知れる。こうした素地の上に生花が法式性を備えたものとして成立するのは室町中期、15世紀のこととされる。これより先、供花の形式は仏像の三尊形式にならって直立する1本を中心に左右に小さな花を配する型を整えたり、香炉・燭台とあわせて、床の間の原型である押し板の上に配して仏像や仏画の前に供える三具足といわれる型を完成させた。14世紀になると仏教の主流は禅宗の占めるところとなったが、この宗派は仏像や仏画を礼拝の対象としないため供花の観賞性が増した。また、当時、日明貿易によってもたらされた唐物(胡銅、鍮石、瑠璃、陶器など)愛好の風は花瓶への関心をつよめ、公家や宮中でおこなわれた花合わせは、花瓶合わせとしてさらに発達し、七夕会の行事とも結びついて民間にも普及した。これらの風潮はおのずから立て花の技術に秀でた者と法式を生むこととなる。文献にあらわれる最初の花人は「看聞御記」永享(1436)年のころにみえる伏見の僧良賢・良照である。また知識と技術において秀でていたのは足利義政の同朋衆立阿弥であった。しかし、同朋衆の花は足利幕府の衰退と運命をともにし、一方、天台宗六角堂法頂寺の僧専慶が出て注目された。この流れは専慶の住坊が池坊というところからその名をとって呼ばれ、専応・専継と受け継がれ、武家・町人階層の好みをも敏感に反映する柔軟性をもち,江戸時代には最大の流派として発展した。このころつくられた「池坊専応口伝書」(1542)は、真・行・草の三態を定め、不出世の名人といわれる寛永期の専好は一つの小宇宙としての立花の様式を完成させ、その弟子十一屋太右衛門は、その構成原理を七つの役枝に整理した。すなわち「七つ枝」(真・真隠・副・副請・見越・流枝・前置)である。しかしこうした様式の完成は、その後継者によって約束ごととして踏襲され、一般への普及とうらはらに自由な展開はみられなくなる。しかし、寛永から元禄にいたる江戸文化の開花と軌をいつに,立花は大輪の花をほこり,花道の主流を占め数々の伝書が刊行された。主要なものとして『替花伝秘書』(1661)『六角堂池坊並門弟立花砂之物図』(1678)『古今立花大全』(1683)『立花正道集』(1684)『立花指南』(1688)『立花便覧』(1695)『立華訓蒙図彙』(1695)『瓶花図彙』(1698)『花道全集』(1717)『立華道知辺大成』(1720)『新編立華百瓶図彙』(1724)などがあげられる。二つ目の「砂之物」というのは、広口の平の器に花を立て足もとを砂でおおう立花の一形式である。この立花の流れが法式性を定め,家元制度によって広く浸透をはかった花道の本流であるとすれば、一方により形式にとらわれぬ自由な茶の花の流れがあった。前述した禅僧たちの供花は、花を仏に供るというよりは自然の美を媒介に造化の神秘にふれ心の解脱をはかろうとするものであるから,器や形式に規制される心要はなかった。この禅僧の花が同じく禅僧たちの修禅の一法であった茶の湯と結ぶのは極く自然のなりゆきであったといってよい。これより先、茶道には禅院を出て公家や武家に広まり東山書院茶礼にいたる流れと、いわゆる陀茶の流れとがあり、前者は足利将軍の同朋衆によって法式化されたものであるから、自らその花は立て花が用いられた。陀茶に結びついた禅院の花は、「一期一会」の覚悟を重んずる茶の湯の精神を表すものでなければならないから、その花も、その人その時における一回限りの花でなければならない。したがって法式化された立花の花と異なり形式や型とは無縁でなければならず、伝えられるべきはその精神であった。したがって、武野紹鴎雪の日の茶会に花器に水のみを張り、千利休が茶会の朝に庭に咲き乱れる朝顔のことごとくをつみとり、ただ床の間に一輪のみを残したという趣向は唯一回限りのものであって、何人もまねのできるものではない。また、こうした工夫は花器にも及び、さまざまなものを花器に見たてた。今日残る利休の竹筒の花器などはその工夫の一端を伝えている。他方、元禄文化の爛熟の中で立花はその精神性を失い技巧主義におちいり,人々が生活の中に活かすには手間のかかる代物となっていった。これに代わるものとして庶民階層のあいだに普及したのがなげいれ花である。このなげいれ花は、再びわかれて格式をあたえる生花様式と、型にとらわれない文人生とに二分される。生花様式は立花の一部分をとって不等辺三角形を基本に天地人と称する基本で構成される。この生花は江戸中期以降、青山御流・源氏流・松月堂古流・未生流をはじめ、茶人を始祖とする石州流・遠州流・庸軒流・古田流などの諸流が輩出し、それぞれの型に自己の主張をこめたが、継承した弟子達はその型を絶対視する幣におちいり、単なる技巧を求め、奇をてらう方向に傾いていった。明治に至り生活の激変の中で生け花の諸流は衰退の一途をたどるかに見えたが,時の文相森有礼が女学校の正科に採用するやようやく息を吹き返し、新時代に対応した新しい生花を生まんとする活力をも回復し、小原雲心が池坊より独立して盛花を、足達潮花が飾花を創始した。この2流はおりからの大正モダニズムの波にのって急速に発展した。さらに大正昭和期には、生活芸能から脱皮し造形芸術への試みがなされ山根翠堂の自由花や、花材のわくをひろげ創造性を主張する勅使河原蒼風の草月流をうみ、また重森三玲をリーダーとし、勅使河原蒼風や中山文甫、大久保雅光、桑原専渓らによる「新興いけばな宣言」が発せられることになる。やがて太平洋戦争の勃発とともに一切の活動は停止されることとなったが、敗戦とともにいち早く復興したのがシュールレアリズムを方法論とする前衛生花であったが、この運動が下火になった後も海外にも普及し多様化の中に今日性を追求している。
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