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●イクター制 イククーせい

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 アラビア語 iqta’ は,「封土」と訳されているが,これが英語のfiefあるいはドイツ語のLehnと同義ととると,問題が多いと指摘されている。さしあたり近似的な意味のものととってよいが,その内実は西欧の場合とはきわめて異なっている。土地の分与については,すでに預言者ムハンマドのころから実行されていた。当時はこの種の土地はカティーアと呼ばれ,小規模の農地・荒蕪の地が軍人・官僚その他に対して与えられていた。この種の土地を授った者は,そこから地租・人頭税を徴収し,代わりに10分の1税を国家に支払った,その差額を自分の取り分としていた。しかし,10世紀以降になると事情はさまざまに変化していく。この変化の実相をとらえるために,まず法学者のイクターの分類をあげておくと便利であろう。それは大別して「私有のイクター」と「用益のイクター」の2種類に分けられる。第1は,地租あるいは10分の1税を支払うという条件のもとで,国家から個人に対して授与される土地である。第2は,地租あるいは10分の1税といったそこからの税収入を,俸給として授与されるような性質のものである。後者は,10世紀以降各地で盛んになり,独自の展開・発展を示すようになる。これを基本とした制度はもっぱら軍人に対して適用されていたため,軍事イクター制と呼ばれる。

【軍事イクター制】隆盛を誇ったアッバース朝も,10世紀になると中央集権的体制の頂点に位置するカリフの地位が低下し,それに応じて官僚機構の機能も弱体化して深刻な財政危機に見舞われる。国家の安泰を保障する軍人たちの給与をいかに賄うか。これが後代の為政者の最大の関心事となる。中央の力が弱体化するにつれて,イクターを与えられた者,ムクターは,しだいにその支払いが義務づけられていた10分の1税を上納しなくなっていた。そこで10世紀の中葉,イラクを征服してカリフを監督下においていたブワイフ朝は,軍事的な支持基盤であったダイラム系の傭兵たちに,国有地の一部を割いて俸給の代わりに徴税権を与える措置をとった。限りある土地の所有権そのものを与えることは,のちにさまざまな難問を残すであろうし,とくに授与の対象が軍人であれば,そこからの税収はおおむね期待しえなかった。土地の用益権の授与は,その意味で最上の解決策であったといえる。そしてブワイフ朝のこの措置は,その後さまざまな支配者によって踏襲され,イスラーム世界に根をおろしていく。したがって一般には,これが軍事イクター制の始まりとされている。初期のイクター保有権は,単にその土地からの徴税権にすぎず,土地そのもの,そこで労働する人々に対する支配権といったものではなった。この点は研究者たちも指摘しているように,西欧封建制における封土の場合ときわめて異なっている。さらにそれは終身制でも世襲制でもなかった。しかしイクターを与えられた軍人たちは,その後徐々に力を貯え,イクター保有者であると同時に,周辺地域の徴税権をも獲得して,しだいに徴税請負人としての性格を強めていく場合もあった。たとえばシリアでは,イクターの保有者が周辺地域の行政の長の役割をも兼ねるといった具合に,種々の権利を一手に集めるといった傾向も現れている。セルジューク朝初期においては,イクターは軍人に対して俸給の代わりに授与される一定額の税収入で,軍人と土地の結びつきは一時的にしかすぎなかった。これは軍事的奉仕を期待して支払われる給与の一種と解釈されうるもので,当事者が軍役に相応しなくなった場合には,権利は解除された。ただしニザーム=ル=ムルクの時代以降になると,事情はしだいに変化していく。一般にこの宰相は,一方ではイクター保有者に対して強く軍事奉仕ヘの義務を要求し,他方では,イクター保有権と行政権とを一本化し,その結果この権利を,これまでの徴税権から領主的な権利へと変化させるとともに,この権利の世襲化への道を開いたとされている。しかしこれは誤解で,宰相自身あるいは,その周囲の人々の証言によれば,彼も在来の方式を踏襲するにとどまっていた模様である。むしろその後の各種の困難が,段階的に上述のような結果をもたらしているのである。国が弱体化し,内紛が昂ずるにつれて,イクターの数量が増大し,授給期間が長引く傾向があらわれた。これが理由で領主的な色彩が濃厚になり,中央からの独立の気運が醸成されて,ムクターが世襲的独立をはかるようになる。たとえばシリアのザンギー朝は,絶えずイクターの増大をはかり,十字軍との戦いの軍費の捻出のためと称してこれを増やし,独立的地位を保つようになった。14世紀になると,イラン・イラクを領有したイル=ハン国も,財政的困難を克服するためにイクター制の導入を始めた。世襲的な土地の授与をソユールガール,一代もしくは短期的な徴税権をトゥュールと称したが,これは主としてモンゴール系の者に与えられた大規模なもので,小規模なものにはイクターという名称が与えられていた模様である。ただし後代になると,これらの区別は実質的になくなっていく傾向にあった。エジプトにイクター制を導入したのは,サラーフッ=ディーンである。彼は世襲的傾向の強いシリアのザンギー朝の制度を拒み,短期的な授与の方式を採っている。同時に国家による強い監視・介入の体制を整え,ムクターの力の強化を防ぐことに腐心している。この傾向は,もちろん中央の力が弱体化した場合には実効性をもたなかったが,のちのマムルーク朝にまで受け継がれている。土地の分割方法に関しては,細心な配慮がなされ,1人のムクターにまとまった土地が与えられぬよう工夫されている。したがって後代になると,例外的な場合も多々あるが,一村が1人のムクターの手にゆだねられるということは,制度的に少なくなっていった。ムクターは上述のような諸権利を与えられていたが,同時に種々の義務をも課せられていた。その一つは部下の軍人の養成である。「十人のイクター」等の名称からも明らかなように,ムクターはその規模に応じて軍人を養い,国家が必要な際には彼らを率いて戦闘に従事する義務を課されていた。ただしこの数は,支配者直属の軍隊の指揮官として働く場合,実際に彼がもつ部下の数を,上回るものではなかった。

イクター制の特殊性】以上でイクター制の歴史を略述したが,ついで留意しなければならないのは,ヨーロッパの封建制社会における類似の制度との相違点であろう。しばしば指摘されるのは,国家とムクターの直接的関係である。ヨーロッパの場合から類推すると,スルタンを頂点として下に大ムクターが存在し,その下に軍事的ムクター,農民が階層的に位置すると考えられがちである。しかし実際にはイスラーム世界では,最も低位のムクターも,スルタンと直接かかわりをもっており,そこに他の力が介在する事態は基本的になかった。またいかなる国家も,領土のすべてを分与することをしていない。たとえばエジプトの場合は,半分が国有であった。そしてヨーロッパの場合,しばしば社会制度の再編成が私的人間関係を基礎に行われているが,イスラーム世界においては,私的権利と公的権利の区分が曖昧にされるようなことはなかった。さらにほとんどの場合ムクターは,都市に居住して土地からの収入を手にするのみであり,手代を遣わして農地の直接経営を行うことをしなかった。また伝統的に根づいた法・慣習はきわめて強固であり,ムクターが気ままにこれを改変することは不可能であった。ヨーロッパの場合との相違は枚挙にいとまないが,上にあげた例のみをとっても,イクター制をヨーロッパの場合との類推で論ずることの問題点は明らかであろう。