●育児 いくじ
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生児を育てる上で現在のように科学的生理的知識の発達していなかった時代には,伝承された知識や信仰が唯一のよりどころであった。これは各地に今でも根強く伝えられている育ての知識があって,とくに子育て信仰などは,民衆のなかに浸透しており,たとえば水天宮や塩釜様などは,この現代においてさえ,参詣者の数,お守り札の売れ行きも変わることがない。【妊娠から出産まで】昔は子どもは授かりものという考え方が強く,人智の介入は許されないと思っていたから,母胎に宿った生命は注意深く扱われ,妊娠中の母親の心身上の注意,食事のさい食べてはならぬもの,してはいけない行為など,非常に多くの迷信・俗信か伝わっている。現代の知識から考えて荒唐無稽のものも多いが,そのなかには長いあいだの生活の知恵の結果と思われるものもあるので,一概に斥けてしまうべきものではない。ただ以前の村の生活のなかで育児は決して一個人の私事ではなかった。村の共同の仕事で将来の村を背負っていく,人間を育てていくということで,子どもは親だけ家だけのものでなく社会の子どもとして育てなければならなかった。子どもの将来をはっきりと自覚していて,社会として自分たち仲間の後輩を育てる心がまえで積極的に後援をした。出産まで,まだ母の胎内にいるころから近隣の集会や行事を通じる形で行われていた。まず,岩田帯と呼ばれている妊娠ヵ月目(3カ月の所も7カ月目の地方もある)の腹帯をしめる日には,仲人をはじめ親戚縁者を招いてお祝いの宴が催される。このときが胎内の子どもと成人たちとの最初の共食であって,その場で食べる食物を通じて精神的な霊力が連鎖的に働いて力強い関係をつくると信じられていた。この場合に限らず食物の力を信じていたわれわれは,ことあるごとに食事をともにして,相互に力を与え合ってお互いに生きる力をたしかめようとしている。
愛知県の渥美半島ではヤライギョウといって,子どもの母親の実家で小さいお供え餅を十数個つくって妊婦に食べさせる。ヤライギョウとは追い払う,追い立てるなどの意味をもつヤラウということばに,オコナイの意味のギョウがついたもので,そういう行事と解してもいいだろう。また同じ県の額田郡ではヨビダシといって,産婆が妊婦を招いて饗応する習わしがあった。これも,もともとの意味は胎児が無事にこの世に出てきてほしいという願いをこめた行事であろう。
【出産】出産の場所は,昔は平生の住居からはなれた場所に産屋を建てて,産の忌にこもる産婦のほかは,産婆だけしか入ることのできない部屋を設けた。産屋を設けない場合には,住居の中のナンドが産室にあてられるのが,ふつうであった。そして産がすめばとりこわしてしまうものだったか,これが常設のものとなったのは,江戸時代の中期といわれ,世が進むにつれて設備のととのった産院となっていったのである。子どもが生まれるとすぐ,ウブメシ(産飯)という飯を炊く。これは御椀に高盛りして,生児の枕許に置き,取上げ婆・産婦のほか居合せた女たちにも食べてもらう。この産飯は子どもがこの世に生まれて最初の食物であったから(もちろん食べられないが),産飯にはさまざまな俗信や呪い(まじない)が付随している。その一,二をあげると,盛った飯を軽くおさえてくぼみをつけると,子どもに笑窪ができるとか,愛敬がよくなるといわれて,生児が女の子の場合にとくによろこばれ,この俗信は日本のなかの広い地域に伝わっている。壱岐島では,ウブメシという名称よりもエクボメシと呼んでいる。産飯はなるべく多くの人に食べてもらえば,将来大暮らしをする(大きな世帯をもつ)ようになるともいわれた。胞衣や臍帯も,現在では単なるものとしかみていないが,昔は生児と深いつながりをもつものと考えられ,処置方法にも細心の注意を払っている。胞衣はそれを洗ってみると生児の前生がどこの誰であるか判るとか,埋め方がわるいと夜泣きをする,また埋めた上を,まっさきに通ったものを一生怖れるといって,蛇やくもなどが通らない先に子どもの父か祖父かまたぐという所もある。胞衣といっしょに埋めるものもこのしろや干鰯・ごまめなどのなまぐさもの,子どもが女ならば糸・針・米,男ならば筆・扇子・墨などがある。このしろを埋めるときは,紙で着物を着せて埋めると子どもの成育の呪いとなると福岡県ではいっている。臍帯を切るには,昔は貝や竹箆・鎌などを用いた。その竹箆を棄てたところが竹林になった(書紀・木花さくや姫伝)とか,また切るとき長く切れば長命だなどといわれている。臍帯は切ったあと自然に落ちるのを待つのだが,これについても以前は大切にしまっておき,女ならば結婚のときにもたせ,男ならば遠い旅行とか航海などのときにはお守りのようにもたせた。本人が危急のときにけずってのませると快復するなどとも信じられていた。また本人でなくその実母がなくなった場合には,生んだ子どもの臍帯を全部お棺に入れるという風俗も中部地方から近畿地方で聞かれる。これをシニミヤゲと呼ぶが,地獄のえんま様がそれを数えて幾人子を生んだかをたしかめ,多ければ多いほど極楽に行きやすいなどとも伝えている。いずれにせよ,昔は臍帯や胞衣がどんな機能を果たすかはわかっていなかった時代には,生児の分身のような慎重な扱いをしたことがよくわかる。
【産後の儀礼】誕生後の浴湯のことは,現在では直後の湯浴みをウブユと呼んでいるが,習俗の上ではもう一つ儀礼的に行われるウブユがあってそれは生後3日目の湯浴みをさしている。宮中の皇子誕生のさいには,3日目の御湯殿の儀という行事には,鳴弦・読書などの儀礼がある。一般の常民のあいだでは,生まれたばかりの嬰児は,ヒナマキ・コロバカシ・ボボサヅツミなどと称して,母親の腰巻きやそのほか軟らかな布に包んで寝せておき,この日の浴湯がすんだあと初めて袖のある着物を着せたという。早くから袖のついた着物をきせると怒り肩になるという俗信もある。この3日目に着る着物は,三日衣裳とかミツメギモン,ニンジュギモン(人衆着物)と佐渡では呼ぶが,衣類に象徴される社会への仲間入りの初めての機会であった。佐渡で「人衆」といえば,仲間という意味で,仲間に入れてほしいというのを「人衆にしてくれ」という。またこの日着るのをテトオシ・テヌキなどともいって,生まれてすぐのヒナマキ・コロバカシなどと違うのは袖のついていることである。もちろん今日では袖のつかない着物などはないが,あくまで以前の生活のなかの風習である。
次に生誕後7日目であるが,現在も「お七夜」と呼んで多少ともお祝いがある。産婦である母親のマクラサゲの日でもあった。坐産であったころ姿勢を平臥に近く枕を低くする日でもあり,子どもには名付けの日でもあった。名付けに関してもいろいろな風習があって,子どもの名のきまらない前に地震があると唖になるとか,群馬県では名をつけておかないとナニ様という山の神様につれて行かれるなどといって,なるべく早く仮の名でもつけておくという。名付けるということは,名付けた者が支配するという心持があったから,完全に親たちの子どもとして認める意味があった。また子どもに初めて乳を与えるときにも,男の子ならば女の子をもつ母親から乳付けをしてもらい,女の子ならば,その反対という風習もあった。また出産全体を通じて,産神(うぶがみ)という信仰も注意しなければならない。ともかく出産は母子2人の生命に関することであるから,地域によって異なったお産の神様はあったが,昔から篤い信仰をあつめていた。氏神様・山の神・箒神・道祖神・塩釜様・水天宮・梅の宮などあげればきりがない。子育て観音・子育て地蔵などは重複しつついたるところにあるといってもいい。関東を中心に顕著な風習は,便所まいり・橋まいり・井戸まいりなどの風習で,おおよそ生後10日前後,おおかた産婆か仲人が子どもを抱いて詣る。井戸や便所などは出産の周辺とは縁の深いところであるほか,子どもの成長段階でも危険の多い場所なのでお詣りするのだといわれている。氏神詣り・初宮詣りは子どもの男女によって1日ぐらいのずれはあるが,原則的には氏子入りの行事である。子どもは現在は母に抱かれていくが,昔の考え方からいえば母の忌ははれていないのでこのときもまだ神社にはいかない。100日前後のおくいぞめ・初正月・初節供など男女により多少の差はあるが,ムカサリと呼ばれる初誕生の行事まで,1年間は子どもを主とした行事がつづく。
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