●イギリス保守党 イギリスほしゅとう
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17世紀以来,王室と国教会の伝統的制度を支持する保守的傾向の議員の集団をさす用語として用いられてきたトーリー党の新しい呼称で,自由党,ついで労働党とともに,19世紀以来のイギリスの二大政党の一つ。【成立】第1次ピット(小)内閣以来,1806〜07年のウィッグ党との挙国人材内閣のときを除いて,約50年間にわたって一貫して政権の座にあったトーリー党は,この間の産業革命の進展に伴うブルジョワジーとプロレタリアートの興隆,自由主義的傾向の増大といった新しい社会状況の展開のもとで,1830年の総選挙でウィッグ党に敗れ,1832年の第1次選挙法改正によって生みだされた,ブルジョワジーをも有権者とする新しい政治状況に直面することになった。そこでトーリー党の指導者ピールはそうした状況に対応すべく,1834年の総選挙に際しては,古来の権利を保持すると同時に,社会的変化によって生みだされた弊害の是正と不満の救済にも努めることを強調したタムワース宣言を発して,党の勢力を盛り返したが,このころからトーリー党は保守党と呼ばれるようになった。
【古典的二大政党政治の時期】1846年ピールの穀物法廃止賛成による分裂後,党はディズレイリの指導のもとに,保守主義をかかげる近代政党に脱することに成功した。彼は,自由党の主導によって実現してきた自由貿易をくつがえすことなく,インドにおけるイギリスの支配体制の強化をはかるなど,その帝国主義政策を押し進めながら,他万では,1867年,第2次選挙法改正を実現し,さらに1874〜80年の第2次内閣のもとで,労働組合の合法化などの社会政策の遂行に意をそそいで,労働者階級を自党の陣営に取り込もうと試みた。同時に全国保守立憲協会同盟を結成し,保守主義を信奉し,毎年1ギニーを納めるものを会員とし,各地方支部がそれぞれ2名ずつ選出する代議員からなる大会を毎年開催するという近代的政党組織を発足させたのである。そしてこの時期,党は,同じく近代政党に脱皮してきたグラッドストー内閣にチェンバレンを植民相として迎え入れ,自由統一派と合体,統一党と呼ばれるようになった。そしてこの時期,ディズレイリについで帝国主義政策を積極的に推進することになったチェンバレンの指導のもとに,南アフリカ戦争を遂行し,国民を帝国主義の側に動員することに成功して,いわゆる古典的帝国主義の形成に大きな役割を果たした。しかし1903年,チェンバレンが,その帝国主義政策をさらに押し進めんがために植民相の地位を辞して,関税改革運動を開始すると,関税改革派と自由貿易派に分裂,1905年政権からの離脱を余儀なくされ,翌年の総選挙で大敗,その後約10年間政権の座から遠ざかることになった。
【第一次世界大戦以後】1916年ロイド=ジョージを首班とする挙国一致内閣が成立すると,党はそこで政権の一翼を担うことになった。そしてその後,労働党が自由党に代わって大政党に成長してきたが,1945年の第l次チャーチル内閣の崩壊にいたるまで,労働党単独内閣のわすかの期間を除いて長期間にわたって,単独で,あるいは労働党などとの連立内閣における多数派として政権を担当。第二次世界大戦後は労働党と交互に政権を担って今日にいたっているが,このように,19世紀以来イギリスの動向を来たすうえできわめて重要な役割を果たしてきた。
〔参考文献〕R.T.マッケンジー,早川崇・三沢潤生訳『英国の政党 上巻』1965,有斐閣