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●イギリス国教会 イギリスこっきょうかい

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イギリス国王ヘンリー8世によって創始された国家教会。

【成立】成立の契機となったのは国王の離婚問題で、アン=ブーリンとの結婚を欲した王は正規の王妃カザリンとの離別を望んだが、その許可がローマ教皇から得られず、イギリスの教会をロ−マ教会より分離独立させ、その権威をもってアンとの再婚を正当化した。しかしかなり早くからイギリス国民のあいだに反教皇的・反ローマ的・反聖職者的傾向の認められることは事実である。むろん一挙に国教会の成立をみたわげではなく、1529年11月に召集された宗教改革議会によりことは段階的に進行した。1532年における“聖職者の服従”と初穂料上納禁止法、1533年の上訴禁止法などは注目に値する。終わりに1534年11月における首長令(国王至上法)の議会通過により、国王がイギリス国教会の唯一最高の首長ということになる。当時おこりつつあった国家主義的風潮の顕著な現れといえる。国教会成立の勢いに呼応し、1536年から40年にかけて全修道院の解散が断行された。1536年の“10カ条”1537年の“主教の書”1538年の“王の指令”1539年の“6カ条”1543年の“王の書”などによって国教会の教義的立場を明確にする努力が払われ一進一退があったが、結局はカトリック的なものを多分に残す保守的な教会に落ち着いた。

【教義の確立】そこでエドワード6世のときにはツヴィングリ派とカルヴァン派の普及に助けられて、教義的改革の前進がもたらされた。1549年と52年の2回における“祈祷害”の制定、1553年の“42カ条”制定はこれを意味する。だがメアリ1世の即位とともにカトリックが復活し、多数の新教徒が国外に逃避、また殉教者も出た。1558年11月エリザベス1世が即位、翌年“首長令”と“統一令”の議会通過をもって国教会を復活、1563年には“42カ条”を基礎とした“39カ条”を公布、世にいわれる“エリザベスの解決”の締めくくりをした。だが女王も父王の線を継承して急激な改革を嫌い、教義面では新教側に接近しながらも“主教制度”を推持し、カトリック的礼式を残して聖職者に法衣の着用を命じた点で“中道”をいく改革となった。そこで改革の徹底を求める声がピューリタン(清教徒)(カルヴァン派)の側から上がり、他方反宗教改革の波に乗ってカトリック側からの運動も盛んであったために、女王の晩年にはカンタベリ大主教ホイットギフトによる国教統一策が実力をもって推進された。

【発展】17世紀に入ると、ジェームズ1世は〈主教なきところに国王なし〉と称して主教制を守る国教会を王権の支柱となし、チャールズ1世はカトリックに寛大でありながらピューリタンに弾圧を加えたので、彼らが絶体王政を攻撃する主勢力となってピューリタン(清教徒)革命をおこした。1647〜48年における革命の成功とともに国教会は一時抑圧されたが、1660年の王政復古とともに再建され、クラレンドン法典(1661〜65)と審査律(1673、1678)とによってその支配を保障された。名誉革命の原因の一つはジェームズ2世のカトリック主義強化の試みに対して国教会を防衛することにあったといえる。王政復古後の体制では教会と国家とが一体関係にあったが、時の推移とともにその継続が困難となり、19世紀になると、従来国教徒にのみ与えられていた政治的特権が、それ以外のものにも認められるようになった。また1830〜50年にはオックスフォード運動がおこり、非国教主義や自由主義に対抗して国教会の権威回復のため盛んに活躍した。さらに1852年にはカンタベリの聖職者会議が、1861年にはヨークのそれが復活され(18世紀の初めから召集が停止されていた)、1919年には“国教会の国民集会”が創始された。なお国教会内部にも、“高教会派(主教の権威を主張し儀式を尊重)”“低教会派(清教主義に傾く)”“広教会派(教義に執着せず社会活動への関心が強い)”の3派対立が認められる。イギリス国教会を母胎として全世界にひろまっている教会が聖公会(アングリカン=チャーチ)であり、各国独立した体勢にあるが、信仰面での連合体がアングリカン=コミュニオンと呼ばれる。

〔参考文献〕八代崇『イギリス宗教改革史研究』1979、創文社

植村雅彦「イギリス国教の定着」『岩波講座「世界歴史」14』1969