●イギリス毛織物工業 イギリスけおりものこうぎょう
ヨーロッパ 英国 AD 【毛織物生産国イギリスの出現】羊毛を用いて織物をつくることは、ヨーロッパでは紀元前から行われ、イギリスでもローマ人の占領時代からみられたといわれるが、毛織物製造が史料に跡をとどめるようになるのは中世になってからで、12世紀ごろには独立的な手工業になり、13世紀には国内市場だけでなく大陸の市場にも出回るほどで、ヨーロッパ毛織物工業の母国の一つになった。しかし中世前半には、イギリスは毛織物生産・輸出国であるよりは、むしろ羊毛生産・輸出国にとどまり、良質のイギリス産羊毛の多くは、すでにヨーロッパにおける毛織物生産の一大中心地になっていた低地地方、さらにイタリアなどに輸出され、羊毛輸出がイギリス海外貿易の主軸をなし、また、独占的な羊毛輸出商(ステープル商人)が当時のイギリス商人を代表していたほどである。しかし、低地地方織布工による優れた技術の導入やエドワード3世による保護政策などに助けられて、14世紀の後半から毛織物の生産と輸出が急速に伸び、イギリスはこれまでの羊毛生産・輸出国から毛織物生産・輸出国へと転身し、中世末までに毛織物工業はイギリスの国民的産業としての地位につく。その地位は、産業革命期に木綿工業にとって代わられるまで続くことになる。また毛織物の輸出にあたった毛織物輸出商(冒険商人)が、かつての羊毛輸出商の地位にとって代わり、やがて組合を結成して王国から独占権を手に入れ、同時に絶対主義権力を財政面で支える大きな力となった。
【農村工業としての毛織物工業の発達】近代資本主義形成の上で、イギリス毛織物工業の意義が重視されているが、それは、イギリス毛織物工業が都市においてではなく、ギルド規制の及ばない農村地域を立地として発達したこと、また、その経営のなかで資本主義の芽が育てられたことのためである。羊毛生産輸出国から毛織物生産輸出国への転換は、毛織物工業の農村への進出とそこでの発達を背景にしたものであり、13世紀以降荘園制の解体がすすみ、農民層の領主権からの事実上の自立化が進展した結果、独立自営のヨーマン層が形成されてくると、そのなかから副業として毛織物製造に手を染めるものが現れた。他方、都市にあって親方になる途を閉ざされた職人で、親方から独立して小親方になった人々から、ギルド規制を逃れて農村に移住し、小農地の耕作のほかに毛織物業を兼営するものが現れ、両者あいまって、これら農村の中産的な生産者のもとで、毛織物工業は農村工業として根づいていった。しかし、農村毛織物工業は、初めは都市の毛織物問屋=“都市の織元”の問屋制支配を受け、紡毛などの準備作業は副業として農村の婦人や子供に、また、織布や染色・仕上げの作業は、それぞれ独立的な生産者に前貸しで出されていた。しかし農村の独立的な生産者のなかには、しだいに富裕化して経営規模を拡大し、家族労働のほかにも貧農層から賃金労働者を雇い入れ、機械制生産の直接的前身であるマニュファクチュア経営を始めて“農村の織元”になるものが現れた。彼らはやがて、絶対主義権力と結んだ都市の織元の攻撃を排除しながら問屋制支配のもとから独立し、産業資本にのし上がっていった。こうした農村の織元によるマニュファクチュア経営の拡大により、東南部・西部・北部が、それぞれ特色のある製品をもつ重要な毛織物地域として立ち現れ、また16世紀から17世紀にかけて古くからの厚手の紡毛織物(ウールン・オールド=ドレーパリー)のほかに、新たに薄手の梳毛織物(ウーステッド、ニュ=ドレーパリー)の導入により市場のいっそうの拡大がはかられ、その結果、毛織物工業は、イギリスの基軸産業の地位をますます固くしただけではなく、古くはイタリア・スペイン、新しくはオランダやフランスの毛織物工業からの競争にも勝利を収め、国際的産業ともなった。
しかし産業革命に際しては、技術革新で木綿工業に遅れをとって、その地位を明け渡し、19世紀になって機械制生産への切り換えが行われたが、同世紀末からはアメリカ・ドイツ・フランスなどの競争にあって、しだいに後退していった。
〔参考文献〕大塚久雄『近代欧州経済史序説 上』1944、日本評論社
大塚久雄『大塚久雄著作集第2巻』1969、岩波書店
角山栄『イギリス毛織物工業史論」1960、ミネルヴァ書房