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●イギリス議会の起源 イギリスぎかいのきげん

ヨーロッパ 英国 AD 

【起源】初期ゲルマン社会においては貴族は王とは仲間であり,王は貴族らとともに統治するものであった。イギリスでもアングロ=サクソン時代から,王は賢人(貴族)たちの集まる賢人会議に,重要な国政のすべてを諮問して統治した。イギリス議会の起源はこの賢人会議に溯源できる。その伝統はノルマン征服後も受け継がれ,王は,王から直接受封している聖・俗界貴族を国王評議会に召集して国政を諮問し,また重大な事件を裁判させた。

国王評議会】本来は聖・俗界貴族のすべてが参集するものであったが,王は便宜上主要な貴族や近くの貴族だけを召集することも多かった。王は貴族の召集にあたって,その1人1人に会状を送って出席を求め,参集した貴族は個人の資格で各自の見解を述べ,国王評議会の決議はとられなかった。王もまた国王評議会の貴族の見解を参考にして決定を下し,必ずしも貴族らの見解に拘束されなかった。国王評議会はクリスマス・復活祭,聖霊降臨節に召集されたが,必ずしも年3回とは限らず,その場所も決まっていなかった。しかし10世紀ごろからウィンチェスター・グロースター,のちにはウェストミンスターなどで開かれることが多かった。アンジュー王朝時代に入ると,王と,王から直接受封している聖・俗界貴族という縦のつながりにとって代わり,聖・俗界貴族のあいだの横の連帯が強くみられるようになり,聖・俗界貴族の特権を守っていこうとする動きが顕著になる。その動きは1215年のマグナ=カルタの12,14章などの規定にみられる。

マグナ=カルタマグナ=カルタは,ジョン王の専制に抵抗して,聖・俗界貴族たちの国政参与権と貴族固有の特権を防衛するための諸要求を連ねたものであったが,このころから,貴族たちの側に庶民の代表を引きこんで,王と折衝する動きがみえ,マグナ=カルタにも庶民の利害を防衛する条章が多くみられる。その後ヘンリー3世が長じて専制するや,レスター伯シモン=ド=モンフォールを指導者とした貴族たちは,貴族たちの連合意識を強めて,それを王国共同体意識にまで高め,1258〜65年貴族の反乱をおこすにいたったが,その過程のなかで,1254年,州を代表するナイトや下級聖職者の代表が議会に召集されたことは画期的な事態であり,また1265年には都市の代表も加えて議会に召集され,しだいに庶民代表たちの構成する庶民院が形をととのえてくる。その後,庶民の代表が州と都市から召集されることがしだいに頻繁になってくるが,庶民代表の召集令状は州長官にあてられ,州長官の責任において代表が送られた。議会に召集された貴族たちは立法や裁判など国政全般に関与したが,州や都市の庶民代表たちは課税の承認と不平の請願に限られていた。しかしエドワード1世が議会制を尊重し,課税にあたっては貴族への諮問とともに,庶民院の同意を得ることにつとめたため,1295年の模範議会以後は,原則として議会のたびに庶民院も召集されることとなった。

二院制の定立】こうして14世紀中ごろまでには貴族院(上院)と庶民院(下院)との二院制をとるイギリス議会制が定着してくる。そして折からの百年戦争によって課税が頻繁になるとともに,庶民院の課税同意権が発展し,それを介して庶民院の政治的発言権もしだいに伸展してくる。16世紀のテューダー絶対王政のもとでは議会の召集が少なくなり,召集された議会も王の意志に従順な議会となったが,しかし宗教改革や独占論争で庶民院の地位は,庶民院を構成する主要な階層であるジェントリの社会的地位の向上とともに向上してゆき,17世紀のステュアート絶対王政の専制に対して,マグナ=カルタ以来の憲政を守る庶民院を中心に議会軍が形成されでピューリタン革命に突入していくこととなる。その後クロムウェルの共和政,王政復古,名誉革命と政局は動揺するが,1689年の権利章典は,議会主権を明確にして,イギリスの制限君主制を確立するものとなった。

〔参考文献〕中村英勝『イギリス議会史』1959,有斐閣

城戸毅『マグナ・カルタの世紀』1980,東大出版会