●イギリス−オランダ戦争 イギリス−オランダせんそう
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17世紀50年代から70年代にかけて3度にわたってイギリスとオランダによって行われたこの海戦は,[1]16〜17世紀ヨーロッパで行われた国民国家形成戦争の一つであり,[2]3度の戦争によりイギリスがヨーロッパのみならず世界貿易においてオランダを圧倒することができ,いち早く産業革命達成のための経済諸条件を備えるにいたったこと,[3]ヨーロッパ国際問題におけるオランダの,イギリスにとってもヨーロッパ大陸諸国にとっても戦略的地位が確認されたことで特徴的である。すでにオランダ独立戦争において,宗主国スペインに対して優位をしめつつあったオランダ連邦共和国と,スペインの「無敵艦隊」を打破して海軍力を誇示してきたイギリスとは,ヨーロッパでの制海権をめぐる衝突がさけられない状況だった。オランダ連邦共和国には南部から移ってきた毛織物工業が,さらには加工貿易も繁栄しつつあり,しかもオランダ東インド会社の東南アジア地域における隆盛により,イギリスは苦しい立場に追い込まれていた。この時期にはオランダは東インドと新大陸貿易,さらにヨーロッパ圏内貿易を自国船舶で行い大きな利益をあげていた。このような状況のなかでステュアート王朝を倒したクロムウェルは,1651年「航海条令」を発布し,自国産品の自国船舶による運搬を狙った。オランダ中継貿易封じ込め,イギリスの対外貿易の確保を目的としたのである。この経済的対立により1652年5月から54年4月にかけて第1次イギリス−オランダ戦争が行われた。イギリス海軍は事前に補強されていたが,オランダ側は商船隊護衛のために海軍力を割かねばならず不利だった。この戦争ではオランダ側がトロンプ・デ=ロイテルらの提督を配しイギリス側がブレークを配した。海戦は一進一退したが,結局イギリス海軍がオランダ海軍を撃破してネーデルランド北部海岸線を封鎖し,勝利を握った。ウェストミンスター条約でオランダは物・心両面においてイギリスの賠償要求を受け入れた。
第2次イギリス−オランダ戦争は1665年3月から67年6月まで行われ,「ブレダの講和」が結ばれた。イギリスでは1660年に王政復古が行われたが,国民の反オランダ感情は続いていた。第1次の戦争はイギリスの優勢で終わったが,海外植民地では事態はむしろ逆だった。オランダはフランスと同盟を結んでイギリスと交戦状態に入る。デ=ロイテルの率いたオランダ艦隊は初めイギリス海軍を圧倒し,1667年6月にはテムズ河をさかのぽってロンドン砲撃を敢行したほどであった。しかしフランスのルイ14世は,オランダとの同盟を一方的に破棄して陸軍をフランデルンに進攻させ,オランダはイギリスとフランスによる挟撃を避けるために「ブレダの講和」を結んだ。イギリスはオランダの海外植民地領有を承認し,これは20世紀までの意義をもつことになる。
第3次イギリス‐オランダ戦争は1672年7月から74年2月まで行われ,再びウェストミンスター条約が結ばれた。「ブレダの講和」後オランダ連邦共和国は,フランスを牽制するためにイギリス・スウェーデンと軍事同盟を結ぶ。しかしイギリスはフランスと「ドーバーの密約」を結んでいた。1672年6月フランス軍は北上を始めたが,7月イングランド東部海岸沖でイギリス艦隊とオランダ艦隊による海戦が行われた。この戦争でイギリス側はオレンジ公ウィリアム3世が総督の地位についた。デ=ロイテルは再び巧妙な作戦展開により制海権を確保しつづけた。ブランデンブルクそして神聖ローマ皇帝もオランダを支持する。このような国際政治面での変化により,イギリスは軟化し,1672年6月オランダに有利な第2次ウェストミンスター条約が結ばれた。1677年ウィリアム3世はメアリ2世と結婚しイギリス−オランダ関係は改善に向かった。これらの戦争によりオランダは国力を消尽したとはいえ,ヨーロッパ国際政治において無視しえない地位を占めるようになった。