●イギリス−インド円卓会議 イギリス−インドえんたくかいぎ
ヨーロッパ 英国 AD1930 ハノーヴァー・ウィンザー朝
1930年から1932年にロンドンで3回にわたって開催された,英領インドにおける自治問題についての会議である。インド・パキスタン独立運動史上の重要な出来事であり,会議の成果は1935年憲法および独立後の行政に大きな影響を及ぼしている。【円卓会議の背景】第一次世界大戦後の1919年に公布されたインド統治法の施行に関して,調査し報告するためのサイモン委員会が,1927年11月に任命された。しかし,すべての委員がイギリス人(白人)であったため,インド民族主義者の強い反発をまねいた。インド国民会議派は,この委員会をボイコットすることを決め,委員会の調査地では相次いで商店や工場などのゼネストを行った。そして,1929年に開かれた国民会議派のラホール大会は,民族運動の目標が政治的独立の達成であることを宣言した。サイモン委員会の報告書は,1930年5月に刊行されたが,地方の州政府のみにインド人の責任政府の樹立を勧告し,中央政府については英領インドとインド藩王国とが連邦制のもとで統合されるまでは,イギリスの植民地政府の継続が望ましいとしていた。インドの民族主義者たちは,このような結論を容認しないで,独立運動の強化に努めていた。
【市民不服従運動の弾圧と会議開催】このような状況のもとで,国民会議派の指導者であるマハトマ=ガンディーは,市民不服従運動を始めた。植民地政府はガンディーらの指導者たちを逮捕するとともに,不服従運動を弾圧した。しかし,広範な大衆運動を強権によって抑圧しつくすことは不可能であった。両者の対立が深まりつつある事態を打開するために,イギリスのマクドナルド首相は,インドと英本国とのすべての政党が代表を送る円卓会議の開催を呼びかけた。第1回の円卓会議は1930年1月16日から翌年の1月19日まで開かれたが,国民会議派は代表を送らなかった。この会議においてイギリス政府は,英領インドと藩王国の双方からの議員で構成される中央議会が成立することを条件にして,行政権を立法府の決定に従わせるとの譲歩をした。
【ガンディーの出席】この結論を受け継ぎ,第2回円卓会議が1931年9月1日から12月1日まで開催された。この会議には,インド国民会議派を代表してガンディーが出席し,宗派別代表制という難問と取り組んだ。イギリスの分割統治政策により,インド人は宗派ごとの社会集団に分かれて,立法府へ代表を選出するように求められていた。この結果,独立運動のなかでもヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立が深まり,相互に利害を調整することが困難になっていた。ほかの少数宗派であるシク教徒・キリスト教徒・ジャイナ教徒・拝火教徒やヒンドゥー教徒になっていない山地の部族民も,それぞれ固有の議席を求めるようになった。マクドナルド首相は,このようなインド民族運動内部の対立を利用して,1932年4月に宗派別の代表ばかりでなく,ヒンドゥー教徒を二つに分け,下層の“不可触民”にも固有の議席を与える提案をした。
【プーナ協定と1935年憲法】ヒンドゥー教徒内の分離選挙に強く反対したガンディーは,死にいたるまでの断食を行うと発表した。断食の最中に,国民会議派とイギリス政府との妥協がはかられ,同年9月24日に合意に達した。これはプーナ協定と呼ばれ“不可触民”カーストの代表は,期限つきで一般選挙区と特別選挙区の双方から選出されるようになった。この妥協にもとづき,1932年11月17日から12月24日まで第3回円卓会議が開かれ,すべての政党に受入れられた。この会議で合意に達した点が白書にまとめられ,イギリス議会の特別委員会に提出された。そして1935年憲法と呼ばれるインド統治法の基本的な枠組を与えることになったのである。