●イギリス
ヨーロッパ 英国 AD
グレート=ブリテンおよび北アイルランド連合王国 United KinGdom of Great Britain and Northern Ireland この国名は“アングル人の国(AnGle‐land)”すなわち“イングランド”を邦語風に呼んだものである,これに“英吉利”の漢字が当てられた。わが国では“英国”という俗称も行われている。ブリテンの名称はローマ時代の古名ブリタニア(ブリタンニ−ブリトン人−の地)からおこる。ヨーロッパ大陸の西北に位置する島国,ブリテン島とアイルランドの北部およびそれに付属する若干の小島を合わせたものがその国土である。【国土】ブリテン島はイングランド・ウェールズ・スコットランドの3部分からなる。従って正確にはイギリスとはブリテン島の構成部分を表すに過ぎない。全面積24万4,046平方km,全人口5,583万人,首都はロンドン,立憲君主国の典型で現在の元首は女王エリザベス2世(1952年2月即位)。イギリスを大陸から隔てるものは距離わずかに34kmのドーヴァー海峡であるが,これがイギリス独自の発展を保障した。同時に,ヨーロッパ全体の潮流に乗ってイギリスが動いていくことの妨げにならなかったのは,歴史の示すとおりである。
地理的位置を示せば南北がほぼ北緯50度と60度とのあいだ,東西がほぼ東経2度と西経8度とのあいだである。イングランドとスコットランドとの境をなすのがチュビオット丘陵,イングランド東南部には広い平野が開けて一大産業地帯を形成する。中部から北部にむかって走るのがペンニン山脈でイングランドの背骨となる。主要な河川は北東部のハンバー・南東部のテムズ・西部のセヴァーンである。ウェールズは山がちの地勢である。スコットランドは北部高地・中部低地・南部高地よりなるが,北部には湖沼が多くて風光明媚,多数の観光客を引き付けている。気候は北緯50度以北にあるにもかかわらず同緯度の地方と比べて温暖,メキシコ湾流と偏西風の影響を受けてのことである。寒暖の差は小さく,冬期でも海が凍ることもなく,夏期は涼しい。7・8・9月は旅行シーズンとされるが,5月の後半と6月も快適であり,また10月がしばしば好天に恵まれて,美しくかつ静かな雰囲気を楽しませてくれる。雨量は年平均1,000mmを超えるが,とりわけ西部に多く南東部は霧に閉ざされる。冬のロンドンは暗くて重苦しい。国民の主体をなすものは西ゲルマン系のアングロ=サクソン人である。それよりも古くから定住していたのがケルト人であり,彼らの多くは今日ウェールズ・スコットランド・アイルランドで生活を営む,支配的な言語は英語であり各地でむろん方言が発達しているが,標準はキングズ=イングリッシュであり米語とのあいだに相違を示している。なおスコットランドとウェールズでは今日でもケルト系のことばが話されている。国民性を一口でいえば理論よりも実際的経験を重んじ伝統に執着して保守的である。だが古いものを新しい現実に生かすことを十分に心得た国民といえる。
【先史時代】ブリテン島は元来大陸と地続きであったが南方からの人類の渡来は前5万年ごろ(第4氷河期)と推定される。彼らは旧石器時代の古生人類に属する。後氷河時代に入る(前2万5000年ごろ)と現生人類が移住,中石器時代の文化をつくりあげた。この時代に大陸よりの分離が徐々に進行する。前2,600年ごろ新石器時代に入る。磨製石器のほかに骨角器・土器が使用され狩猟・漁撈のほかに牧畜・農耕(小麦・大麦の栽培)も営まれた。前2,500年ごろから巨石文化が出現,その名残りがストーン=ヘンジである。前2,000年以降ビーカー人が渡来,彼らによって銅・青銅の使用がもたらされた。鉄器時代の始まりは前500年ごろと推測され,その創始者が印欧語系のケルト人であった。彼らのうちの最後の渡来者がベルガエ(ベルギー)人と呼ばれ有輪犂を使用する進んだ農法を採用したとされている。
【ローマの征服】ローマ帝国の支配は帝政期の初めにブリテン島にまで伸びた。征服の先鞭をつけたのはカエサル(前55年と前54年),その後1世紀末のドミティアヌス帝のときにブリトン人の抗戦を排して,ウェールズを含む全土が平定された。カレドニア(スコットランド)の併合も企てられたが成功せず,ハドリアヌス帝の築いた長大な塁壁をもって帝国最北の国境線とした。属州ブリタニアには4個軍団が置かれ(のちに3個),道路網の敷設と都市建設によって全島の帰服が図られたが,大局に立って判断すれば点と線に限られた支配であり,土着民の社会に大きく影響しなかった。その支配すらも3世紀後半以降維持しがたき状況となり,4世紀後半には異民族の侵入が加えられたにもかかわらず,軍団の引き揚げが相い継ぎ,410年ホノリウス帝はブリタニア放棄を宜言,約350年間のローマ支配に終止符が打たれた。
【アングロ=サクソン時代】ローマ軍の撤退後ケルト人の復興がみられたが,間もなくアングル・サクソン・ジュート諸族の大挙侵入が始まり,プリトン人もよく戦ったが,7世紀初めまでに彼らの支配が確立,7王国の成立をみた。その社会は自由民を根幹とする氏族制的血縁共同体を土台としてできていたとされている。7王国は相互に勢力を競い合っていたが,9世紀前半ウェセックス王によって統一王国形成の端緒が開かれた。6世紀末以降におけるローマ=カトリック布教(修道士アウグスティヌスの伝道に始まる)も重視されるべきであり,7世紀後半にはアイルランド系キリスト教を圧倒してイギリスをローマ教皇の支配下に入れた。8世紀末以降ヴァイキング(ノルマン人)の侵入が始まりアングロ=サクソンは苦闘を強いられ,アルフレッド大王の防戦は成功したが11世紀の初めには彼らの王カヌートの支配を受けねばならなかった。その没後にはウェセックス王家が復活する。なおアングロ=サクソンの自由民はヴァイキングとの戦いに疲弊し,このことが彼らの隷属化を進め,さらには兵農分離と社会の封建化を促したといえる。また10世紀以後北方の主勢力となったスコット人もヴァイキングの被害者であったが11世紀後半にスコットランド王国の成立をみた。
【封建英国】イギリスにおける本格的な封建制の成立はノルマンディー公ウィリアムの征服(1066)以降のことである。公はエドワード懺悔王のあとを継いだハロッドを討ってイギリス王となりノルマン朝を開いたが,同時に新王は全国土を部下のフランス系騎士と聖職者に,軍役奉仕を条件として賦与し,各所領の構成単位をなすものが荘園(マナー)となった。そこには自由を失い土地に緊縛された農民(農奴)が居住して耕作に従事し領主の生活を保障した。この国の封建制も大陸のそれと本質において異ならないが集権性がより強かったといえる。ウィリアムの偉業はヘンリー1世およびへンリー2世によって継承され封建王政は進展した。後者はフランスのアンジュー家出身であったが,結婚によってその西南部をも領有するにいたり,ためにイギリス王は一大複合国家の君主となった。時代の影響を受けてリチャード1世は十字軍に従事し,次のジョン王はアキテーヌを除く大陸所領の大部分を喪失,また国内諸侯との争いでマグナ=カルタ(大憲章)の公布がもたらされた。イギリス憲政発展の礎石とみなされる。1代おいての君主エドワード1世は英明で,ウェールズ・スコットランドに軍を進めてブリテン島統一に努力,1295年の議会には騎士と市民を参加させて身分制議会の第一歩を示した。他方ジョンの失敗以後もフランスとの軋礫がやまず,その総決算がエドワード3世治下の1337年に始まる百年戦争となった。イギリス軍の優勢なときもあったが,1453年に終わったときにはカレーを除く全領土がフランスに帰した。なお14〜15世紀には黒死病の流行などを契機として賦役の金納化と直営地の借地化がもたらされ(封建社会の変質),大勢を既往に帰さんとする政府の反動的施策は農民たちの反乱を招いた(1381)。不安な社会情勢を背景に議会が成長し,この国独特の二院制の成立も14世紀に認められる。百年戦争の結果はイギリスが大陸との旧縁を絶って独自の発展を歩む道を開いたわけであるが,さしあたってはばら戦争と呼ばれる内乱の勃発となり戦う双方に多大の出血を強いた。だが一般的にみて15世紀は農民の黄金時代とされ封建的拘束から解放された自由な農民(ヨーマン)の台頭が認められる。
【絶対王政】上述したようにばら戦争では有力貴族の犠牲が大きく,それがテューダー絶対王政の成立を促した。開祖はボスワースの戦い(1485)の勝利者ヘンリー7世で,彼がとくに王室財政の基盤強化に尽力したことは注目されてよい。次代のヘンリー8世は離婚問題が直接の原因となってローマ教皇の支配から独立したイギリス国教会を実現し,王自身がその首長となり,また修道院の解散を断行,その所領を王が没収した。1530年代に成就された重要な変革であるが,いずれもが議会の支持と協力を得て遂行された。少年王エドワード6世のときには教義上の改革が進んだが姉メアリーの即位に伴い旧教会が暫時復活,だがその妹エリザベス1世は父王の線に立ち返って,1559年に首長令・統一令を制定,教義面では進歩的であるが主教制度を温存し,礼拝などでカトリック的なものを多分にとどめる国教会をつくりあげた。大陸のカルヴァン派に共鳴して,かかる旧教会の残滓を一掃せんとする人びとがピューリタン(清教徒)であり,彼らの宗教的熱情が17世紀における革命の一因を形成した。生涯を独身で通した女王がイギリスのために尽くした功績は大きいが,わけてもオランダの独立を援助したことから強国スペインと開戦,1588年にその強大な艦隊(アルマダ)を破って国威を輝かした。女王の治世を社会的にみれば修道院領の獲得・囲い込み(エンクロージャー)などによって富強となったジェントリの興隆期であり,ヨーマンのなかにはしだいに貧富の差が大きくなりつつあった。経済面では毛織物中心に問屋制家内工業とマニュファクチュアの展開がみられる。16世紀は大航海時代に当たるが,ドレークらイギリス人のそれにふさわしい活動が認められ1600年に東インド会社が設立された。グリテン島統一の視点に立てばスコットランドをフランスから切り離すことに成功,また離反を繰り返すアイルランドに対しては,手元不如意を顧みず積極的政策が取られた。なお文化史上ではイギリス=ルネサンスの盛期であった。女王の死(1603)後スチュアート朝のジェームズl世が即位,スコットランドと同君連合の間柄になったが,王権神授説を信奉して非立憲的言動に出たため,前女王の治世中に力を培いつつあった議会と対立し,形勢はチャールズ1世の治世に入って一層悪化,王が1629年から11年間にわたり無議会の専政を施行したため,イギリス人の多数が自分たちの尊重する政治的伝統の危機を意識し,重大決意を固めるにいたった。
【二つの革命】内乱と革命の発端は1640年11月における長期議会の召集である。はじめは絶対王政の改良が意図されたが,清教徒議員が主になってその要求を過激なものとしたため,国王との武力対決が不可避となり,騎士党(王党派)と円頂党(議会派)の抗争となった。1647年6月議会派の勝利が確定し1年半後にチャールズが処刑されて共和政が実現する(1649年ピューリタン革命)。それ以前から議会内部に対立が生まれ,帰着するところは所有階級による革命の成果の独占となった。クロムウェルによる軍事独裁制の樹立(1653)はもてる階層の地位と財産を守るためであったとみられる。そしてその階層が清教主義を表看板にした窮屈な護民官政治に嫌悪を感じたときに,1660年の王政復古となった。なおクロムウェルはアイルランド・スコットランドに兵を進めているし,オランダに対して航海条令発布,ついて開戦という強硬措置を取ってイギリスの今後の発展に益するところ多かった。さて復古王政はチャールズ2世・ジェームズ2世と続いたが絶対王政への傾斜が著しくなったため,議会は,オランダから新教徒の王女メアリーとその夫君ウィリアムを迎えて共同統治者となし“権利宣言(ホイッグ党)”を承認させた(1688〜89,名誉革命)。両度にわたる革命の最終的結論は議会主義の上に立つ制限王政の確立であった。なお17世紀後半には政党(トーリー党)の成立が認められる。
【地主寡頭支配の時代】今や国家の意思決定を下すものは王ではなくて議会となり,その後も議会の地位を強化するため各種の改革が行われたが,18世紀に入ってハノーヴァー朝が成立すると国王のドイツ出身という偶然が働いて責任内閣制の成立をみた。だが当時の政治体制を近代視するのは許されない。議会の構成は古いままで,大衆の声はそこに反映されず,一言で表せば貴族・ジェノトリ・大商人のための機関であった。しかもジェントリのなかで中・小のものが没落し,大地主の富裕化がもたらされ,彼らは大商人・金融業者と結託して鉄壁の構えを維持しえた。これが地主寡頭支配である。他面17世紀末からフランスを敵とする戦争が多くなる。ファルツ侵略戦争・スペイン継承戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争などがあげられるが,これらによってフランスの強大化を阻止するとともに植民地獲得競争でもフランスを完全に抑えた(とくにインド・アメリカにおける勝利)。これがまた国内の支配階層を益するものであることはいうまでもない(現にウィッグは海外発展を支持)。国債制度が始められ(1692),イングランド銀行が創立された(1694)のも戦争と結びつく。なお1707年にスコットランドの併合が実現されてイギリス連合王国が成立,またウィリアムは1690年にアイルランドを親征,この島の状況はいよいよ悲惨なものとなった。
【産業革命時代】1770年ごろから“大西洋革命”の時代が始まるとされるが,イギリスもその圏外に安住できなかった。アメリカ独立革命に関しては当自国であったが,フランス革命の場合でも対仏大同盟を組織して戦い,ナポレオンに対しては最大の強敵となった。だが産業革命こそはイギリスが主役となった最重要の変革であり,現代文明の出発がそこに認められる。この革命によってイギリスは世界の先進国となり“世界の工場”をもって自他ともに許すにいたった。なお産業革命と並んで農業の革命が進行し,資本主義的大経営が実施され,農民のなかで土地喪失者が多数出たが,彼らは大工場に吸収されるか海外への移民となった。また産業革命の結果,工場を経営する産業市民層の台頭がみられたが,彼らは政治的に無権利であったところから前述の地主支配の体制に猛然たる反発がおこり,揚句の果てが1832年における第一次選挙法改正となった。大英帝国についてみればアメリカを失ったので,インドを中心にその再編成が行われた時期である。ウィーン会議はこの国にマルタ・セイロンの両島とケープ植民地をもたらした。
【自由主義時代】ヴィクトリア女王は1837年に即位,ここにイギリスは最盛期を迦える。産業市民層の要求が容れられて穀物法が撤廃され(1846),自由貿易が時代の大勢となった。しかし1832年の改革で置き去りにされた労働者のあいだからは普通選挙などを求めてチャーティスト運動がおこり,1839年,1842年,1848年にさかんな盛り上がりを示した。そこからは直接的な成果がなく結局は支配者側の妥協と譲歩により,第二・三次の選挙法改正がなされて広範囲の労働者が有権者となった。かくて19世紀後半の議会は,全国民の代表機関たるにふさわしき構成を呈し,トーリー・ホイックの後身たる保守・自由両党による政党政治が実施されてそれぞれの党首たるディズレイリ・グラッドストンは大政治家として不朽の名を残した。当然国際場裏におけるイギリスの発言権は大きくパーマストンのごとき自信家の外交官が出ている。クリミア戦争の勝利は彼が首相のときである(1856)。インド支配も行きつ着くべきところに到達,1877年に女王がインド皇帝を兼ねるにいたった。中国進出もめざましく(1840〜42アヘン戦争・1856アロー号事件),日本とも通商条約を結ぶ(1858)。だがアイルランドでは反英運動が燃え上がって予断を許さぬ状況,カナダでも反乱がおこって(1837)自治植民地の地位許与にいたった。
【帝国主義時代】1860年代末までイギリスでは小英国主義が有力であったが,1870年代以降全欧的趨勢に応じて,帝国政策への転換が明らかとなった。原因には独占化された資本主義の要求が認められるが,同時にアメリカ・ドイツの著しい産業発展が,この国の優越を脅かしたので,排他的市場としての植民地が,改めて重要視されるにいたった。そして積極的対外政策の発足は第2次ディズレイリ内閣(1874〜80)であるが,より著しい帝国主義者はジョセフ=チェンバレンであった。後者は国内社会問題の解決を植民地開発に求めたが,この時代には労働者の反体制運動が活発化しており,マルクス主義者の結社も生まれフェビアン協会が名乗りをあげ,1906年には労働党の成立が認められる。なお国内状況をそのほかの面で概観すれば人口の都市化と農業の衰退が認められ,鉱工業の完成とサービス業の発達にも注目すべきである。ところで今世紀に入ると列強が取った帝国主義政策の相克が同盟,協商の対立を呼ぶこととなった。“光栄ある孤立”を誇ったこの国も1902年に日英同盟を,1904年に英仏協商を,1907年に英露協商を結ぶにいたっている。1914年8月第一次世界大戦が始まり,4年余にわたる苦闘ののちようやく勝利をつかみえた。
【両大戦間とその後】イギリスは戦勝国であったが,国際的地位が低下しアメリカへの依存,アメリカとの協力が不可避となった。1921年のワシントン会議と日英同盟の廃棄がこれを実証する。しかし国内政治の面では民主化の進展を評価すべきであり,1928年には男女平等の普通選挙権が認められている。また戦後労働党が自由党を圧して伸び,1924年にはその内閣が初めて成立した。他方大英帝国の構成についても変化がおこり,大戦に協力した自治領をもって“イギリス連邦”が組織され各自治領には本国と平等の内治・外交権が付与された。なお1922年にアイルランド自由国の成立が認められる。このように大戦後のイギリスでは革新的な動きが目立つけれども,1929年秋に始まった世界恐慌がこの国の経済をも破綻におとしいれて失業者数が増大,やむなく金本位制と自由貿易を放棄し,イギリス帝国経済ブロックの形成に踏み切った。他方恐慌はドイツ・イタリアのファシズム強化をもたらし,それが日本の侵略主義と呼応して第二次世界大戦の開始を導いた。イギリスは再度戦勝国の栄誉を得たが,疲幣甚だしく,世界の指導権をアメリカとソ連に奪われてしまった。しかし戦後に成立した労働党内閣のもとで,重要産業の国有化と“ゆりかごから墓場まで”を標語とする社会保障が実施され,資本主義世界における画期的改革となった。保守党政権もこの政策を継承し(いくぶんかの修正があるにしても)それが国の基本的路線となっている。イギリス連邦の構成にも大きな変動があり,1920・1930年代に変化のなかったアジア・アフリカの植民地が相次いで独立を達成,イギリス連邦は現在44カ国から構成される。インドはそのうちの大国であるが,ビルマは含まれず,1949年に完全独立を遂げたアイルランドも加入していない。なお1949年に“イギリス連邦”から“イギリス”が取り除かれた。むろん戦後のイギリスは経済の低成長・インフレと失業・人種問題・対EEC問題,そして最近では北アイルランド内戦などをかかえて多事多難であった。しかしその間においても,議会主義と政党政治がかたく守られてきた。現在のごとき転換期では,思い切った変革が断行されるとともに,歴史によって培われたよき伝統が生かされていかねばならない。
【文化】イギリス文化の根底にあるものはやはり古典文化・キリスト教・ゲルマン精神の3者であり,その形成は中世に進められた。しかしイギリスにおこった文化現象には独特の性格といったものが認められる。中世の学者ロジャー=ベーコンは,早くも研究法として観察・実験を重んじ哲学に経験論を導入した。末期スコラ学者のオッカムは,認識可能なるものは個物についての表象のみと主張して,経験主義への道を開いた。以上の学風を継承して,フランシス=ベーコンは一切の先入見・幻像を除去して経験(あるいは実験)から出発する帰納的方法をもって一般原理の抽出にいたるべしとした。理念よりも事実を重んじ実行を尊しとする国民性が,学問・思想の上では経験論を生んだといえる。実際の経験がものをいうから,イギリス人は実践に長じ常識に富む。だが他面彼らは驚嘆すべき独創力と想像力の持主でもある。英文学がこのことを例証する。文豪シェークスピアはあらゆる制肘と束縛から脱して,自由奔放なる思考と空想のおもむくままに,人間と世界を解釈し表現したというべく,英文学における一つの伝統を形づくった。だがテニソンらによって代表されるヴィクトリア朝文学にいたると,主観性よりも実際性・常識性の優越を認めざるをえない。
〔参考文献〕大野真弓編『イギリス史』(新版)1965,山川出版社
青山吉信・今井宏編『概説イギリス史』1982,有斐閣
G.M.トレヴェリアン,大野真弓監訳『イギリス史』3巻,1973〜75,みすず書房