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ヒポクラテス】小アジアの西岸に近いコス島に前約460〜前450年に生まれ,前370年ごろ死亡したとされている。アスクレピアデンのl人として医療を行っていたが,彼はギリシア医学の最高の学者であり,また臨床家としても古今東西の最も偉大な存在となっている。それは彼が医の領域において“倫理”と“医術”と“医学”の3者を併せて,本来の“医”の完成をはかったという点にある。すなわち,ヒポクラテス全集にみられる“誓い”は,徹底的な医師の義務論,あるいは使命観を根底とするものであり,しかも患者に対するきわめて心暖い救済の心情から発している“倫理”の具体化である。また医術としては,無駄な論議をせずに,個々の病人とその環境(食生活を含む)との関連性を凝視しながら,自然治癒能力を十分発揮させるような治療法を試みている。さらに,医学を合理的な経験科学として,完全に従来の悪魔の力などによるとされた“神聖病”(今日の癲癇と同一のものと考えられている)を,他の一般の身体的疾患と同様な白然的な原因によるものと強調し,神的な疾患をまったく否定する立場を明らかにして,この病気を脳の病変に由来するものであると述べている。なお,上述の“誓い”は彼の作によるものではなく,前4世紀以後の後期ピタゴラス派の医師によるものであるとの学説も近年有力になっているが,いずれにせよ基本的には,彼の倫埋観の中心的思想を表現しているものといえよう。またヒポクラテスの医学には,上述の全身療法的なもののほかに,局所的な外科治療学がある。とくに頭部外傷・関節脱臼などの高度の治療法が記載されている。

【アラビアの医学】いわゆるアラビア医学とは,中世におけるイスラーム文化圏を中心とする医学のことであり,中近東から中央アジア・インド・北アフリカからイベリア半島までその範囲が及んでいる。したがってアラビア医学といっても,アラビア半島に限られたものではなく,その文献の大部分がアラビア語で記されているので,このように呼ばれているのである。世界で医術に関する文献で最古のものは,今から約5,000年ぐらい前にメソポタミアの南部平原に住んでいたシュメール人の残している,粘土板上に記された楔形文字によるものであるが,そのなかには,肝臓は血液の循環をつかさどる最も重要な器官であるとか,心臓は知恵の中心をなすものであること,あるいは,食物を吸収することにより血液が新鮮になるなどと記載されている。しかしながら,この時代の疾病観は悪霊原因説であり,これを追い払うことが治療の重点とされていた。さらに下ってバビロニアの時代になると,有名なハンムラビ王(前18世紀ごろ)による法典がつくられており,とくに医師の治療週誤に対して,きわめて厳しい刑罰を規定している。たとえば,誤って自由民の眼を傷つけたときは,己の眼も傷つけられるべしとか,骨折をおこしたときは医師の骨も折られるとか,場合によっては医師の両手を処罰として切断することもあるなどと定められている。イスラームのコーランによると,第5章「食卓」のなかで,死獣の肉や血液などは食用にしてはならないと禁止しているが,これも今日の食肉衛生上の一般的禁止事項と一致しており,飲酒も悪魔のためとして禁じられていることは周知のとおりである。なお,女性の月経も一種の疾患とされているが,これは種々の自他覚症状を伴うものが多いことによるものであろう。いずれにせよ,この時代にはいまだにすべての疾病は皆アッラーの神の下されるものとされ,アッラーはその御心により人間に疾病をつくったり,治したり死に導くこともあるといわれていた。またコーランのなかには,“心の病いをもったもの”という意味の語句があるが,これはアッラーの教えを信じようとしない不信の徒をさしている。ムハンマド(570?〜632)の『伝承』のなかに治療法として,蜂蜜の服用・吸角治療・灸の3種をあげている。アラビア医学における代表的な医師として,アヴィセンナ(985(一説には980年)〜1036)がいるが,彼は『医学規典』(アル=カーヌーン=フィツ=ティッブ),その他医学関係の大著8種を残している。とくにこの『医学規典』は,アラビア医学の精髄をまとめて体系だてたものであり,その後5世紀のあいだヨーロッパの医学に大きな影響を与えたといわれる。また,彼と並ぶ臨床家としてラーゼス(850〜923?)がいるが,彼も『天然痘と麻疹の書』など多数の医書を書いている。最大の業績は『医学体系』(アル=ハーウィ=フィツ=ティッブ)であるが,これは自分でまとめたものではなく,彼の死後に高弟らにより,その備忘録的な原稿が整理されて一編の書となったものといわれている。数十巻の大部のものであり,そのなかには種々の疾患の症例報告などが精細に記載されている。さらにアラビア医学の特徴としては,薬物療法のほかに精神的療法を行っていることであり,とくに心因性疾患の治療に成功した例が上述の『医学規典』のなかに記されている。他方,アラビアの医学はギリシア医学の伝統を引き継ぎ,とくにヒポクラテスの医学を尊重し,発展させていることは興味深いところである。もちろん地理的には,ヒポクラテスの生地も小アジア半島の西岸に近いコス島であり,アラビア文化圏のなかにあったことによるともいえよう。

【ローマの医学】ローマ帝国が隆盛になるにつれて,医学の中心もまたローマに移行した。すなわち,まず前1世紀の初めごろにアスクレピアデスにより,ギリシアの医学がローマに移入され,のちの方法学派の基をなした。他方,ガレノスヒポクラテスの流れを汲むプネウマ理論を唱えて,生理学・病理学・治療学の大系をまとめたが,彼の医学はその後,ルネサンスにいたるまで全ヨーロッパに君臨した。

アスクレピアデス】前124年ビチニアのプルサに生まれ,アテナイやアレクサンドリアで医学を研究したのちローマに移り,独得の固体病理説を唱えた。彼の著書は20巻に及んだといわれているが,現在その多くは残存していない。彼の学説は,ギリシアのデモクリトスの原子説を基礎とするものであり,ヒポクラテス流の液体病理説とは異なり,人体を構成する成分を微小な原子と考え,精神活動さえもこれらの原子の動きであるとみなすものである。これらの原子は結合して微小な管孔を形成し,栄養物の微小原子はこの孔を通って体内の各部分に搬入されて摂取され,また不要になった成分の原子も,このような管孔から体外に排出されるものとされた。この考え方は,後世の物質代謝の発想につながるものである。本質的には,人体の活動は特殊な原子運動によりおこるものであり,そこでは生命力というようなものの存在を否定している。このような考え方により,たとえばマラリアにおいても,比較的大きな管孔が閉塞しているときは,一日熱の型をとり,四日熱は小さな孔が塞がることにより発生し,三日熱は,その中間の大きさの管が詰まっておこるものとみなされた。したがって彼の説によれば,すべての疾患の治癒も,ヒポクラテスのいわゆる「自然の治癒力」などによるものではなく,身体を構成する原子の運動の正常化によるものとされている。このような理論から種々の疾患の治癒に際しては,各種の食事療法のほかに,散歩・かけ足・乗馬・体操・マッサージなどの物理的療法を取り上げ,また動き椅子・釣床・車などによる他動的運動をもすすめており,このほかにも冷水浴・発汗・温浴などの身体機能の活性化をも試みている。彼の理論はローマにおいて高く評価され,多くの後継者を得た。

テミソン】彼は,アスクレピアデスの理論をさらにすすめて症状別に疾病分類を試み,それぞれの症状群別に治療法を考案している。すなわち,患者の全身症状を,[1]緊張症,[2]弛緩症,[3]混合症の3群に分けた。たとえば発熱して皮膚が乾燥するものを緊張症とし,これは,アスクレピアデスのいう原子の管腔が収縮して狭くなったためにおこるものとされ,これを治療するには,この管腔を緩めるような食事療法と物理療法が必要と考えられ,そのために減食・瀉血・温浴などが行われた。ちなみに,急性疾息は一般にこの緊張症に含まれ,それに対して慢性疾患は弛緩症に属するものとされ,また,てんかんの類は上記の緊張症と弛緩症との混合型,すなわち混合症とみなされており,この場合には,治療もこれらの2種のものが併用されることになっている。このように各疾患の治療法が,具体的に規定されているので方法学派(あるいは守法派)と呼ばれ1世紀から2世紀にかけて,ローマで全盛をきわめたものである。なお当時,産婦人科および小児科の医師として有名であったソラヌスも,この派の流れを汲むものである。

ガレノス】130年(128年,あるいは129年という説もある)に,小アジアのペルガモンで生まれ,200年ごろにおそらくシチリア島で没したといわれているが,彼はギリシアのヒポクラテスと並んで,ヨーロッパ古代医学の代表者とされている。とくに彼は実験生理学の創始者として,多くの業績を後世に残した。彼は,循環系・中枢神経系の解剖学的知識の上に立っていくつかの生埋学的実験を試み,その結果から重要な結論を導き出している。たとえば山羊の股動脈を露出し,その2カ所を結紮して脈摶の停止を認め,ついで結んだ部分の中間を切断して,そのあいだを金属管で連結したのち,結紮した結び目を解くと再び脈拝が出現することをみ,さらにこれより心臓に近い部分に新たに結紮を施し,脈摶の再度の停止を観察して,脈博は心臓の博動に伴い生ずるものであることを証明している。ただし彼は,この場合の博動を心臓から力が出て動脈に伝わり脈博をおこすものとしている。この説明は現在においては,そのままでは通用しないが,理論を実験により実証しようとする考え方は,実に独創的なものである。しかし彼の実証精神も,中世ヨーロッパのキリスト教支配による非科学的社会のなかに埋没してルネサンスにいたった。ガレノスは,基本的にはアスクレピアデス以来の方法学派のものとは異なり,ヒポクラテス伝来の自然機能を重んずる治療法を主としているが,部分的にはテミソンらの手法や,アレクサンドリア学派のものをも広く取り入れ,従来のギリシア由来の観念論的な理論にとどまらす,科学的な内容をもつものとしている。すなわち,ヒポクラテスは病気の原因を四液の不調和によるものとしたが,ガレノスはこれを治癒に導く自然能力のなか,とくに病毒の排出を滞止させないようにはかることが必要であると考え,そのために種々の薬物の使用にさいしては,その用量は,[1]病気の原因の除去,[2]対症療法的なもの,[3]患者の年齢・性別・生活法など,種々の要因を検討しで総合的に決定されるべきものとしており,かなり合理的な面を表している。

〔参考文献〕小川鼎三『医学の歴史』1964,中央公論社

一松藤元訳『文明と病気』1973,岩波書店

廖温仁『支那中世医学史』1981 科学書院

大地原誠玄『スシュルタ本集』1971, 臨川書店

浜洋訳『インカ黄金帝国』1979,大陸書房

川喜田愛郎『近代医学の史的基盤』1977,岩波書店

前嶋信次『アラビアの医術』1965,中央公論社

2.医学の改革と復活

【16〜18世紀の医学】1514年,ベルギーのブリュッセルに生まれたアンドレアス=ヴェサリウスは,パリ大学医学部で解剖学を研究したのち,イタリアのパドヴァ大学において外科学と解剖学の教授となった。研究結果は1543年に『人体構造論』として発表されたが,この書は近代的な系統解剖学の体系をとっており,ガレノス以来の中世的なものとは異なっている。彼の研究のなかでとくに重要な点は,心臓構造に関するものであり,それまではガレリスの学説として,左右の心室のあいだの壁には孔があるとされていたのを否定したことであり,これは当時としては画期的な変革であった。しかしながら,このガレノスの権威を破る見解は多くの,従来の研究者たちの非難を受け,まもなくパドヴァを去り,ドイツ皇帝カール5世の侍医となった。1564年イェルサレム巡礼の帰途ザンテ島で客死した。ウィリアムハーヴェーは,1578年にイギリスの南海岸フォークストーンに生まれ,15歳のときケンブリッジのカレッジに入学し,リベラルアーツの卒業後,北イタリアのパドヴァ大学でジロラモ=ファブリチオ−静脈弁の発見者−に師事し,1602年帰国した。1628年,血液循環の原理に関するきわめて重要な論文『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』を発表した。すなわち血液は心室の収縮により肺動脈あるいは大動脈に入り,とくに大動脈に流入した血液は,その根もとの弁膜により逆流を防止されて全身へ分配され,さらにこの血液は,静脈をへて心臓に送り帰されることを実験的に,しかも定量的に論じている。しかし,動脈と静脈とのあいだの移行部についてはなお明らかにされず,のちのマルセロ=マルピギーによる毛細血管の発見により,循環系の完全な解明がなされている。ハーヴェーの第2の業績は,発生学に関するものであり,『動物発生論』として1651年に発表されている。このなかで,彼は“すべての動物は卵から生ずる”という表現をしており,いわゆる前形成説,すなわち「卵のなかに,のちに発達してくる体がごく小型なものとして既に形を整えてできあがっている」という考え方を排し,「動物の体は初めから形ができているのではなく,発生の途上で順次その形がつくられてくる」と主張しているが,この見解もきわめて意義のあるものである。彼の研究が,つねに十分な生体観察と実験的証明の統合によりすすめられ,定量的な理論を以て結論づけられていることは,近代医学の先駆けといわれよう。1657年に他界した。アントニー=ファン=レーウェンフックは,1637年,オランダのデルフトに生まれた。彼は自分でレンズを磨いて板にはめ,手製の顕微鏡を組み立て,これによって生体の細かい構造を観察し,その所見を手紙の形で,ロンドンの王立医学協会に送った。その報告の数は約200通に及んだといわれている。彼の記載したものは原生動物および細菌類を主とするが,とくに1674年から1676年のものは細菌の形を最初に認めたものとして意義深い。また,ウナギの尾部の毛細管に血液が流れることを観察し,さらに赤血球の正しい形を初めてみている。なお,ほかにも,骨格筋に横紋のあることを記載していることなど,生物の徴小形態学の基礎をつくり,のちの微生物学の発展に大いに貢献している。1680年に死亡した。

〔参考文献〕井上清恒『医学史概説』1971,内田老鶴圃新社

小川鼎三監訳『図説医学史』1982,朝倉書店3.科学的医学の興隆

【19世紀以降の医学】クロード=ベルナールは,1846年に膵液の消化作用に関する研究を発表し,1857年,肝におけるグリューゲンの生合成を証明した。彼の業績としてとくに注目されるべきものは“内部環境”の考え方である。すなわち,生体全身に対する栄養と同じ原理が細胞の栄養にも通ずるはずであるとして,血液を細胞に対する栄養物の供給媒体であると論じた。たとえば肝から血液に糖を放出し,その間接栄養系による細胞の栄養は“内部環境”を形成するものとされ,それは一定の温度・酸素分圧を保つ恒常性維持の論理となり,のちのキャノンの“homeostasis”の概念を導き出している。他方,彼は神経生理学の領域においても多くの業績を残しており,とくに交感神経の作用を検討し,顎下腺が交感神経および鼓索神経により二重支配を受けていること,さらに鼓索神経を刺激すると血管を拡張すると同時に,唾液の分泌を高めることをみいだしている。さらに,彼は血管が交感神経と副交感神経の支配により,それぞれ収縮・拡張しながら血流の量を調節していることを明らかにしている。彼の著書で不滅なものとされているものに『実験医学序説』があるが,そのなかの決定論に取り上げられている同一条件下の同一現象の発生,および物理化学の法則性に合致すべきことなど,きわめて意義深いものといえよう。そのほか南米の毒物クラーレの選択的作用を解明した。ルドルフ=ウィルヒョーは,臨床医学と病理解剖学から理論医学として病態生埋学を形成することを考え,“病理解剖学,生理学および臨床医学雑誌”を発刊し,“生理的および病理的組織学の基礎に立つ細胞病理学”も出版している。彼は“すべての細胞は細胞より生ず”という生物学の原則のもとに,すべての生活体の単位として“細胞”を考え,“病気”も“細胞あるいはその集合体である組織や器官の変質”とし,徹底的な固体病理学説を完成した。すなわち,病気の原因として体液病理学説を退け,解剖と顕徴鏡所見による形態学的観察を以て,すべてを解決しようとしたものである。彼はまた,公衆衛生の領域においても重要な主張をしている。たとえば,衛生省の創設・労働者の最長就業時間の規制・貧困労働者の国費医療などであるが,さらに政治家としても活躍し,1861年より1902年までプロイセン州議会の議員をつとめ,1893年までは帝国議会の議員でもあり,ビスマルクの最大の政敵であったといわれている。ルイ=パストゥールは1848年,酒石酸複塩の結晶形の非対称性と施光性との関係に関する研究を発表して,のちの立体化学の端緒をなした。ついでディジョンはストラスブルクで教育に従事し,1854年,リールの新しい理科大学の教授になった。ここで彼は,ビート糖の発酵時における障害対策の検討を契機として発酵研究を開始し,その後1857年に母校に戻ってからの発酵微生物学研究の発展は,遂に微生物自然発生説に対する否定実験,さらには,空気・水・土壌中の環境微生物の証明にまで及び,1865年には,ブドウ酒の腐敗防止法として加熱処理法を発表した。この方法は今日もなお,彼の名を記念して“Pasteurization”といわれ,食品の低温殺菌法として知られている。1867年,ソルボンヌの教授に就任した。1877年炭疽の研究を始め,以後,壊疽・敗血症・産褥熱・狂犬病などのヒトに対する病原微生物の研究を続々と発表し,とくにワクチン免疫の実験を試み,多くの有意義な業績を残している。また彼は,今日一般にいわれている環境生態学的思考を以て,感染症発病の条件を検討しており,たとえば結核に対する抵抗は,一方では遺伝的素質により,他方では,気候などの環境因子や栄養条件の総合により決定されるものと考えていた。さらに大胆にも,外傷に際しての病原微生物に対する感染防御力は精神状態により影響を受けるとまで述べていることは,きわめて興味あるところである。なお彼の微生物病原論は,ジョセフ=リスターの石炭酸による防腐手術法の開発に発展し,その後の外科的治療法に多大の貢献をした。ロベルト・コッホは,ポーランドのボルスタインにおいて,地方保健技師として診療を行いながら土地の炭素病を研究し,1876年に発表した。ついで,1878年には創傷感染症について細菌学的な検討を試み,1880年に帝国衛生院の参事官となり,研究に専従することとなった。1881年に『病原微生物の検索法』を発表し,そのなかでゼラチンを用いる固型培地による細菌の分離・純培養法を述べている。この技術の開発は,それまでのパストゥールによる液体培養時の混合培養と異なり,目的の細菌のみを取り出すことを可能としたものであり,後続の病原細菌の研究に決定的な威力を発揮した。すなわち,この技法を駆使することにより,早くも1882年には結核菌の発見,1883年にはコレラ菌の病原論の展開と矢継ぎ早の研究発表がなされた。ちなみにコレラ菌そのものは,すでに1854年にパッシニにより,イタリアで発見・記載されていたものであるが,その病原性に関する論議は,その純培養により初めて可能となったものである。また,微生物の病原性を論ずる場合に,現今においてもつねに検討される“コッホの条件”と呼ばれる定式があるが,それは,ある特定の感染症の病原体を決定するときの3条件である。[1]その微生物がその病巣からつねに(reGelmassiG)に証明されること,[2]その微生物は,その疾患に特徴的に(ausschliesslich)に存在すること,[3]その純培養菌を継代培養した菌を動物に接種して,元の疾患と同様な病変をおこしうること,の3条件が全部充足されれば,その微生物はその疾患の病原体と認められるものとされている。1882年に,彼の不滅の業績『結核症の病因論』がベルリンの臨床医学週報に発表され,ついで,その補完された詳細な論文が,帝国衛生院紀要に1884年に掲載されている。1885年ベルリン大学の衛生学教室の教授となり,1891年には,新たにベルリンに新設された伝染病研究所の所長に任命された。なお彼は1890年に,結核菌の培養炉液からツベルクリンを調整し,これを以て結核の特効薬としようとしたが,その目的は達成されす,今日のいわゆる“遅延型アレルギー現象”の端緒をなした“コッホの現象”が認められた。晩年は,熱帯医学の領域において研究をすすめ,アフリカ・インド・ジャワ島などを旅行して,回帰熱・腺ペストなど,種々の熱帯病に関する発見をしている。アメリカ合衆国では,1876年,ジョンズ=ホプキンス大学がボルチモアに設立され,その後医学部の開設にあたり,1889年にオスラーが招かれて教授となり,この大学を隆盛に導いた。さらにウェルシュ・モール・ハルステッド・ケリーらが,それぞれ病理学・解剖学・外科学・婦人科学の教授となり,アメリカ医学の指導的役割を果たした。なお,オスラー・ウェルシュらはドイツに学んだ。当時のアメリカ医学は,ドイツ医学を範として出発している。しかし,今世紀に入るとアメリカ独自の医学に発展し,多くの優れた研究者が出ている。このことは,アメリカ全体の医学教育水準を向上させることにより可能となったのであるが,そのためにアメリカ医師会(オスラーらの創立したもの)の医学教育病院協議会は,劣等な医学教育機関の閉鎖を提案し,1908年から1929年までのあいだに約100校が閉鎖されて,医学生の質が上昇し,その結果現在では,欧州列国に比して遜色をみない水準に達したのである。アメリカの代表的な研究の一つとして,1900年のリードを主班とする陸軍の黄熱研究班の業績があげられる。すなわち,アメリカ‐スペイン戦争ののちハバナの黄熱の流行にさいして.ネッタイシマカを駆除して,150年間の黄熱の禍を断絶することに成功した。ついでリケッツが,1909年に発疹チフスの病原体として今日の“Rickettsia”を発表している。また1944年に,ワクスマンは,土壌微生物の培養より抗生物質ストレプトマイシンを分離し,結核の化学療法の道を拓くなど,多方面にわたって活発な研究がすすめられている。

〔参考文献〕川喜田愛郎『近代医学の史的考察』1977,岩波書店

小川鼎三『医学の歴史』1976,中央公論社

4.日本の医学

今日現存している日本最古の医書は,982年(天元5)に丹波康頼により編葉された『医心方』30巻であるといわわれているが,この書は中国の『病原候論』を中心として,これに多数の随・唐の医書からの抜粋を加えたものである。鎌倉時代には1214年(建保2)に,栄西の『喫茶養生記』2巻があり,茶の医薬としての効果を述べている。また,梶原性全は1302年(乾元l)に『頓医抄』50巻を著しているが,これには北宋末の『欧希範五臓図』が参考にされている。彼はそのほかにも1315年(正和4)に『万安方』50巻を撰している。室町時代の初期には金・元の医学,李朱派が多く行われ,以後江戸時代まで日本医学の主流をなした。1543年(天文12)ポルトガルの商船が欧州の医学を伝えたが,天主教の禁圧とともに衰微した。1754年(宝暦4)わが国で最初の人体解剖が行われ,1774年(安永3),杉田玄白・前野良沢の『解体新書』がつくられた。これはクルムズの『ターヘルアナトミア』の翻訳である。華岡清州は1805年(文化2),曼陀羅華(チョウセンアサガオ)の実を主成分とする麻沸散(別名通仙散)と称する全身麻酔剤を用いて,乳癌の手術に成功している。その後1823年(文政6),オランダよりドイツ人シーボルトが長崎に来て,翌年鳴滝に塾を開いたが,全国から多数の医学生が集まり医学の教育を受けた。彼の後にはポンべが招かれて来朝し,明治時代に入るまでオランダ医学が支配した。1858年(安政5),江戸在住の伊東玄朴らが種痘所を神田に設け,西洋医学の基地として漢方医学に対抗したが,これが幾多の変遷をへて東京大学医学部に発展した。1870年(明治3)ドイツと日本政府とのあいだに,医学教師2名を3年間雇うことの契約が結ばれ翌年実現され,大学においてドイツ式の医学教育が行われるようになった。昭和に入り第二次世界大戦後にはアメリカ医学が加わり,現在では広く世界中の医学が交流している。

〔参考文献〕藤野恒三郎『日本近代医学の歩み』1974,講談社

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