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医学 いがく
ギリシアの哲人ヘラクレイトスは“すべては流れる”といい、東洋においては“流転真如”(瑜伽論)と称し、万物の生成と消滅を本来の姿として理解している。しかもこれらの諸現象を生起せしめるものを、ギリシア人たちは“原理”(アルケー)とし、ブッダは“相依性”と考えている。人間とてもこの法則の例外ではあり得ない。すなわち、いかなる人も必ず生病老死の運命のもとにあり、しかもこれらの変遷は一定の因果性により支配されているからである。しかしながら、この“流転”の実態は、必ずしも人間に喜びや楽しみのみを与えてくれるものではなく、むしろ苦しみと悲しみをもたらすものであることは、、流転苦、、という語があることからも窺い知られる。他方、人間は本能的に苦しみを離れたいという欲望があり、したがって、この“流転苦”より脱出する方法を、地球上における人類の出現以来今日にいたるまで一貫して模索しつづけているのである。
人間の苦しみを大別すれば、精神的なものと身体的なものになるが、この区分は必ずしも割り切れるものではなく、これらの二つのものはつねに関連性を有している。これらどちらか一方を根本的に解決すれば、他の一方は白動的に消滅することが考えられるが、現実的にはその両者がなんらかの比率により相互に影響して、総体的な苦しみの度合が決定されるものといえよう。ここにおいて、これらの苦しみから逃れる工夫として、原始時代には祈祷を主とする霊魂・悪魔などに対する呪術が行われていた。これは各時代のそれぞれの地域の宗教と関連して、比較的近代に近い時期まで地球上の各地において実行されていた。現在においてもなおアメリカその他の地域において、メディシンマン・シャーマン・ウイッチドクターなどと呼ばれて魔法医として医療を行っている。彼らは単純に呪術のみを行うのではなく、かなり多くの種類の薬草類を使用しており、たとえば、催幻覚薬LSD-25に類似した薬理作用を示すメスカリン−LSD25の約8,000分の1の作用ではあるが−を含有する、サボテンの抽出物をメキシコのメディシンマンが使っていたことからも、精神状態に対する影響を含んで、実際に種々の薬理作用のある生薬類を投与していたことが知られ、かなりの治療効果のあったものと思われる。また、本邦の神祇時代にも“禁厭まじない−として解除(はらい)・祈祷が行われていたが、さらに“療病”として薬物を使用したらしく、内服薬を“久須利”(くすり)といい、奇(くす)しき貴き術として“くすり”の語ができたものといわれている。薬物の最初のものとして酒があげられ、そのほかに外用されたものとして、蛤の加熱物を火傷に塗布したと伝えられている。また仏教・キリスト教などの諸宗教においても、それぞれ独特の生命論を有しており、それぞれの医療による民衆の救済に関与している。
医学を科学として発展させたのは、ギリシアの時代であるといってよいであろう。すなわち、上述の“アルケー”、の存在を根拠として呪術と神話から離れ、人間の疾病を自然現象の一部として理解し、それに対する医療を行うようになった。その後、基本的な考え方としてはヒポクラテスとガレノスの理論が、ヨーロッパ中世にいたるまで支配しており、アラビアにおいても同様であった。ルネサンスの影響が、医学にみられはじめたのは16世紀になってからである。すなわち、解剖学者ヴェサリウスの出現であるが、彼の直接観察により人体の構造が明らかにされたことであり、これによりのちの生理学・病理学の基礎が固められた。またデカルトは、人体を一定の法則によって動く機械であるとし、この発想はハーヴェーの血液循環の発見につながるものといえる。18世紀に入ると、数学・物理学・化学などの関連科学を医学に導入するようになり、生理学・病理学・薬物治療学・外科学・眼科学・産科学などの諸領域において画期的な進歩を示し、さらにヨーロッパ社会における臨床医療制度が定まり、国家による医師資格の厳格な制定・家庭医制度の実施・医学教育組織の大幅な改革が行われた。また1798年には、ジェンナーが牛痘接種法を発表して免疫による感染防御方式を確立した。19世紀はフランス・ドイツの生理学・薬理学・病理学・徴生物学に、きわめて重要な時期となった。すなわち、フランスにはクロード=ベルナールの出現があり、内部環境とその恒常情維持機能などが検討され、ドイムのウィルヒョウは細胞病理学を中心とする病態生理学を形成し、さらに、フランスにパストゥール、ドイツにコッホが相次いで病原微生物学をつくりあげた。前世紀末より今世紀初頭にかけてウィルスの発見がなされ、現在においてはほとんど大部分の感染症の病原体が判明し、その感染経路・媒介昆虫類まで調べられて、流行防止対策が確立されている。なお病原微生物の決定と、それに続く免疫方法の研究により、結核を始めとして細菌性のウィルス性とのいかんを間わず、多くの感染症に対して感染防御免疫、あるいは抗毒素免疫が可能となった。他方、諸種の抗生物質の発見・利用により、従来治療のきわめて困難であった感染症も比較的容易に治癒するようになり、現在はウィルス性のものを除いては、大部分の感染症は化学療法により治療されている。しかしながら、上述の結核などの感染症による死亡が少なくなった結果、近来、社会全体の高齢化が進み、従来は発癌年齢以前に死亡していたために、あまり問題にならなかった諸種の癌の発生が大きな社会問題となってクローズアップされてきた。さらに、古来存在していたと思われる古典的な発癌物質に加えて、近年富みに盛んになってきた化学工業の進歩とともに、多数の新規化学物質が製造・使用・廃棄されるに及んで、職場や一般の生活環境の発癌物質による汚染も考えられるようになり、その対策は緊急の要務となっている。しかしこれらの発癌も集団検診などにより早期発見されれば、適当な治療によりかなり高率に全治しうるようになってきた。すなわち、現在は安全な麻酔・呼吸・循環の完全管理・術後の処置などにより、病巣の切除が十分に行われるようになっていることと、放射線治療・抗癌薬剤の併用もかなり有効なものが実用化される段階にきていることなど、癌治療についても明るい見通しがついてきたものといえよう。最後に残る問題は、高齢化社会とそれに伴う老化による身心の障害であり、植物人間的な状態まで生残する例も生じ、これらの対策は、社会全体の努力により解決しなければならないものであり、医療技術(テクネー)のみでは無理であろう。
1.16世紀までの医学
【エジプト医学】古代エジプトにおいては、一部にはなお呪術的なものを残しているが、かなり合理的な外科的治療法や薬物療法などが行われていたらしく、現在なお、これらに関する記録がパピルスとして残存している。これらはいずれも象形文字で書かれており、そのうちエドウィン=スミス=パピルスは前16世紀に、当時より前の古い原文を書写したものとされているが、主として外科学的事項が記載されてあり、人体の解剖に関するものも述べられている。またエーベルス=パピルスは、内科的記載が主となっているが、とくに薬物療法の処方が記されてあり、その長さは20m以上・幅30cm・文章の行数は2,289行に及ぶ大部のもので、処方の種類も875種に達するものであるという。なおこれらの文献も、当時の一般的な社会習慣として、医神すなわちイシスの女神への祈りから始まり、呪文も若干含まれてはいるが、その大部分は疾病分類、症状および治療法を記載している。しかしながら疾病の治療者としては、専門の医師のほかに、サクメット神の祭司および悪霊払を指定していることは、ギリシア医学以前のものとして、シャーマニズムから脱却しきれない状況を示しているものといえよう。これらのパピルスに取り上げられている疾患の範囲は、きわめて広範なものであり、種々の内臓疾患はむろんのこと、眼料・産婦人科などにまで及んでおり、とくにその病原論において、4種の元素の存在を考えていることは、のちのギリシア医学のそれと関連して興味深いところである。すなわち土・水・熱・風の4元素を主体の本質と想定し、これらを人体に配分して医学を構築している。たとえば、呼吸には「風」の元素を配しているが、吸気を生の息、呼気を死の息と称し、前者にはプネウマという人の生命をつかさどる微妙なものが存在するとした。なおこのプネウマの考え方は、その後もギリシアからヨーロッパ中世の医学まで続いており、現代の「酸素」の概念のなかへと続くものである。また、当時から衣食住などの生活環境に関する予防医学的事項を定めた法律があり、とくに飲料水は煮沸したものを用いることが明確に規定されていることなど、経験的に認められていたことではあろうが、現今の医学常識からみてもまったく合理的なものと思われる。エジプトの実在の医師としては、イモテープが前2900年のころの、第3王朝のドーゼル王の侍医として有名であるが、彼はきわめて優秀な医術を行い、多くの病苦の人々を助けたので、死後も永く後世の人に慕われて神格化され、オン・サイス・メンフィス・テーベンなどの各地にその神殿がつくられたという。さらに、これらの神殿において医学校が設立され、医師の養成が行われたと伝えられている。なお当時は、一定の規定された方法による治療のみが行われ、その方法で治療した場合には患者が死亡しても医師の責任は問われなかったが、医師の独自の考えで治療した結果、患者が死にいたったときは、その医師は死刑に処せられることもあったらしく、医師の創意工夫による新しい治療法の発展はみられない。ヒポクラテスのギリシア医学以後においては、アレクサンドリア時代にヘロフィロスとエラジストラトスの2巨匠の名が医学の領域に残っている。ヘロフィロスは前300年代の人であり、ヒポクラテスの学問を守ると同時に、解剖学の研究をすすめて多くの新知見を得ている。とくに、知覚神経と運動神経を区別するなど神経系の検討を試みており、そのほか脈管系の生殖器官の解剖学も精密なものである。これはアレクサンドリアにおいては、人体の解剖が比較的自由に許されていたことによるものと思われる。また、エラジストラトスもヘロフィロスと同時代の人といわれているが、彼も解剖学者として視神経・小脳などを研究するとともに、循環系の起源が心臓にあることを明らかにしている。また生理学的方面にも検討をすすめ、心臓の弁膜が作用して血液を一定方向に流していることを認めており、プネウマは肺静脈から左心室に入り、心臓の搏動により全身に送られるとし、さらにプネウマには2種あって、栄養供給と神経支配をしていると述べているが、この考えは現今の神経薬理学と考えあわせてみても興味あるところである。なお病理学については、彼はヒポクラテスの液体病理説によらずに固体病理説をとり、とくに肝硬変や組織の浮腫などの実質的形態の変化に注目している。
【中国の医学】中国の戦国末期から秦漢時代の医学を紀元前後にまとめたものと思われている『内経(だいけい)』は、黄帝(前2698ごろ〜前2598ごろ)が岐伯と医学に関して行った問答を記載した形式がとられている。もちろん現在においては、これらの人物は伝説的な存在となっているが、本書の内容は中国医学史上、きわめて重要な意義をもつものとされている。すなわち、この古典的記述のなかの解剖学・生理学的部分がその後の中国において、隋・唐の時代までそのまま受け継がれ、広く医学の基礎とされていたことからも、いかにこの書が長期間にわたって影響力を有していたかがうかがわれる。素問および霊樞の2部からなっているが、素問は疾病の原因を陰陽二気の不調和によるものとし、木・火・土・金・水の五行説を取り入れ、肝心・脾・肺・腎の5臓器をそれぞれ配している。さらに体の表層に12経絡を想定し、この道を通って種々の病気が各臓腑に達するものと考えている。霊樞のなかには、癲癇および精神病を取り上げた『癲狂篇』があり、古代の精神医学書として特異的なものである。また、治療法としては鍼灸の法が述べられており、薬物利用とともに推奨されているが、とくに鍼の刺される部位として、上述の経絡に沿った特定の場所を指定していることは興味深い。本書の当初のものは、南北朝以後には戦乱のため亡逸したものが多く、その大半は失われていたが、隋の時代になって煬帝の年間(605〜616)に、楊上善が『黄帝内経太素』30巻を撰述し、『黄帝内経』の註解を著した。現在中国においても、秦漢の原本はすでにまったく散失しているが、京都の仁和寺にこの『太素』が保存されているので、これより1,000年以上のあいだ亡失していた『黄帝内経』の内容を推定できるのである。張仲景(ちょうちゅうけい)は、“中国のヒポクラテス”といわれるほどの古代における中国医学の代表者の1入であり、『傷寒論』の著者として有名である。158〜166年のあいだごろ(范行準による)、現在の河南省の南陽に生まれ、名は機、仲景はその字であるといわれている。後漢の霊帝のとき考廉にあげられ、さらに長沙の大守になったとされている(『傷寒論序文』一林億)。なお、当初の『傷寒論』は現存せず、その後約100年後に西晋の王叔和により校訂され、宋の時代に林億の改訂したものが現在残存しているものであり、現存の『傷寒論』のうち、どの部分が本来張仲景により述べられたものかは不明であるが、いずれにせよ、500年ごろには現在の『傷寒論』の原型のものが実在したものと考えられよう。なお当時、『黄帝内経』は中国北部を背景として鍼灸の治療法を主として述べているのに対し、『傷寒論』は江南地方を中心として、薬物療法に力をおいていることは興味あるところである。『傷寒論』の書名も時代により種々の変遷があり、『張仲景弁傷寒』『張仲景方』『王叔和張仲景方』などと初期には呼ばれていたらしいが、『唐書』芸文志のなかには『傷寒卒病論』となっている。なお唐代には、後世の『傷寒論』と『金匱要略』を一書にまとめた『張仲景傷寒論』という書物もある。また、唐代の『金匱玉函経』も『傷寒論』の異本である。このように『傷寒論』にはきわめて多種の書名が残っているが、『傷寒論』とは実は本来、『傷寒卒病論」の略称であるといわれる。すなわち、『傷寒卒病論』とは、“傷寒”という病気とそのほかの中風などの一群の疾患について、分類・診断・治療法を述べたものである。ちなみに“傷寒”は、当時一般に急性熱性疾患を意床したものであり、必ずしも現代用語として“傷寒”が腸チフスをさしていることに限らない。また“中風”は脳卒中のことではなく風邪である。華陀(かだ)は、中国古代、後漢の末に字を元化といった外科医で、世界で最初に、麻酔をして開腹術を行ったといわれている。『後漢書』の方術列伝、『三国志』華陀伝などに記載がある。麻沸散と呼ばれる麻酔薬を使用して全身麻酔を施し穿頭術も試みられたといわれているが、その詳細については不明である。後世に『華氏中蔵経』として孫星衍(1753〜1818)によりまとめられた書があるが、このなかには第1巻は各臓器の症侯論、第2巻はリウマチ、潰瘍、膿瘍などの診断、第3巻は各種治療法と薬物処方が記載されている。彼はまた、解剖学者としても知られており、『内照法』という人体内部の解剖図譜を著したとされているが、この書は現代まで伝わっているものである。そのほか産科学の領域においても双生児の出産の処置などについて記録を残している。
【インドの医学】インドにおいては、古くから種々の『ヴェーダ』のなかに医療に関する文献が散見されるが、とくにl〜2世紀のころにまず『チャラカ本集』が、またこれに続いて3〜4世紀には、『スシュルタ本集』がそれぞれ成立し、この両者はインド古代の二大医学書として今日に残されている。この時期は、インドにおいても呪術から医学への移行期にあたっており、多くの薬草の利用や外科的治療法が取り上げられ、専門職として医師の社会的地位も確立してきている。上述の両書には共通した内容の部分も多く、とくに薬物の種類は大多数が一致しているが、他方いくつかの根本的な相異点もみいだされる。すなわち、『チャラカ本集』は主として薬物療法を取り上げているのに対し、『スシュルタ本集』では多くの部分を外科にあてている。しかし、両者ともに必要に応じて内科的および外科的方法を用いることを認めている。
【インカの医学】インカ帝国時代には多くの病気は神を怒らせるような人間の行為に対する罰としておこるものと信じられていたので、その治療法として、聖職者に対する罪の告白などが行われていたが、一方においてはコカの葉などを薬用にすることも広く知られており、また、医療を専門とする人(アンピ=カマヨ)も存在していた。彼らの薬草に関する知識はきわめて該博であり、キニーネを解熱剤として用いたり、多種の植物により治療を行っていた。また、インカ医術の驚くべきものの一つとして頭蓋穿孔術(ずがいせんこうじゅつ)がある。すなわち、紀元前1200年ごろより今世紀前半まで、プレインカからペルーの時代にかけて、この手術は実施されており、古くは黒耀石などの尖頭器を用いて行われたものと思われているが、発掘遣体の頭蓋骨には穿孔が七つもあるものが発見されている。しかしながら、この頭蓋穿孔術の目的については明らかではない。
【ギリシアの医学】ギリシア医学の揺籃期も古代における他の地域の医学と同様に、まず、非実在性の神話的様相を示しており、その代表としてアスクレピオスがあげられる。彼はアポロの子といわれ、ギリシア民族の医神として広くギリシア本土からエーゲ海の諸島・小アジアの沿岸に及ぶ諸地域において、信仰の対象とされていた。また、彼の妻エピオネは鎮痛の神、娘ヒギエイアは衛生の神とされ、とくに現在も衛生学をHYGieneと称しているのも、この娘の名前に由来している。アスクレピオスの神殿はアスクレピエイオンと呼ばれ、広くギリシアの各地に多数建てられ、そこには宿舎もつくられて多くの患者を収容し、神殿に仕える神宮が神託を告げたりしながら諸種の治療を施したといわれている。他方、前5世紀の初めごろまでには、ギリシアの各地に一定の医学教育を受けた医師団体ができあがり、そのうちいくつかのものは、アスクレピアドと呼ばれていたが、とくにコス島・クニドスなどのものは特有な学派をなしていたという。ヒポクラテス(後述)もコス島の医学校の教授であったとされている。またこれらの所で教育を受けた者は、しだいに古来の祈りや呪術を中心とした宗教医学から離れ、専門技術者的な医師となり、診療所を開設した者はイヤトレイオンと称していた。ギリシアの医学は、文献的には『Corpus Hippocraticum』(今裕訳『ヒポクラテス全集』)を調べることにより、一応その概要が知られる。すなわちこの書はヒポクラテスの死後、前3世紀ごろアレクサンドリアにおいて、プトレマイオス王朝の官命により、ギリシア全土より集められた資料をもとにして編集されたものといわれているが、このなかには必ずしもヒポクラテス自身の著作のみならず、当時残存していたギリシア医学全般の文献をまとめたものとみなされているものもある。したがってその内容も、ヒポクラテス本来のコス派のものにとどまらず、クニドス派・シチリア派などのものまで組み込まれているので、これを検討することにより、ヒポクラテス時代のギリシア医学の全体にわたる概観が可能となるものといわれている。
【ギリシア医学の特徴】古代の呪術と祈祷中心の医療の神秘思想は、前6世紀から前5世紀のギリシアにおいてようやくその脱皮を始め、経験義的・合理的な科学的要素によって交替されるようになった。すなわち、自然の本質を理性によって究明しようとしたイオニアの自然哲学の無神論的発展により、過去の永い神秘主義の呪縛から解放されつつあった当時のギリシアの医学者は、人体に関する諸現象をもきわめて明確に自然の法則の一環として把握するにいたったのである。たとえば前5世紀の半ばごろ、シチリアの哲学者でもあり医師であったエンペドクレスの宇宙四元素説−水・火・空気・土の4要素により、すべての存在が成立するという説−の影響を受けて構築されたと思われる人体四液説などは、その代表的なものであろう。すなわち、四液として、[1]血液、[2]粘液、[3]黄胆汁、[4]黒胆汁の4種の体液を設定し、血液は肝臓で食物からつくられ静脈内に存在し、粘液は全身から生じて脳に貯溜し、黄胆汁・黒胆汁はそれぞれ肝臓および脾臓から分泌されるものとした。なお体内において、この4種の体液が調和のとれた混和(クラーシス)の状態にあるときは健康が保たれ、その失調により病気がおこるものと考えられている。また、体温は左心室に存在する内在熱に由来し、この熱の作用で四液が調理(ペプシス)されるものという。さらに、基本的な生命源としてのプネウマ−精気とも訳されている−は、左心室および動脈内に存在し、栄養源として温熱維持に役立っていると考えられた。他方、各種疾患の治癒もまた身体に本来具っている治癒力によるものとされ、これもイオニアの哲人達の“自然”の概念が、ヒポクラテスにより経験的事実として取り上げられたものといえよう。ヒポクラテス全集のなかに“自然は病気の医者である”と記されている。ちなみに、今世紀にキャノン(1871〜1945)により提唱されたホメオスタシス(恒常性)の概念に一脈相通ずるものを感じさせる論理である。ここにおいて各種疾患の治療には、まず体液の変調の原因となった不適正な食事・気候の変化を検討し、これらの悪条件をまず除去することにつとめ、その上で前述の自然の治癒能力を十分発揮できるように手助けをすることが本筋であるとした。したがって、ヒポクラテス全集のなかの「急性病の養生法」にも、とくに各種の治療食の処方が詳細に記載されている。もちろん当時、種々の薬物が使用されたことも知られているが、とくにコス派の特徴として、このような養生法が重視されるべきであろう。
(1/2:続く)
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