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●イェルサレム問題 イェルサレムもんだい

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 イェルサレムという都市はユダヤ教・キリスト教・イスラームの三大宗教の聖地である。この宗教的象徴性のゆえに,つねに国際的紛争の要因をはらみ,パレスチナ問題のなかでも最も解決の困難なものの一つとなっている。

【聖地としてのイェルサレム】ユダヤ教にとっては前10世紀以来神殿のあった地であり,70年にローマ軍の手によって徹底的に破壊されたのちになお残る境内の西壁(嘆きの壁)は,中世以降祈りの場として神聖視され現在にいたっている。キリスト教にとってのイェルサレムは,イエスの死と復活・昇天の地であり,4世紀のコンスタンティヌス大帝にさかのぼる聖墳墓教会は,この町に数ある聖跡のなかでも最も神聖な場所として多くの巡礼を惹きつけてきた。一方,イスラームにとってもこの地はメッカ・メディナにつぐ第3の聖地である。神殿跡中央に金色に輝くドームは大きな岩を覆い包んでいるが,この場所からムハンマドが天上に赴いた,とされる。これら三つの宗教の聖跡が入りまじって,城壁で囲まれた約1平方kmの旧市街とその周辺に集中している姿がイェルサレムである。

【国連のパレスチナ分割決議とイェルサレム】1947年イギリスからパレスチナの将来をゆだねられた国連は,〈パレスチナに関する国連特別委員会〉を発足させ,現地での調査を踏まえて〈パレスチナ分割案〉を総会で可決した。そのなかでイェルサレムは,パレスチナの他の地域とは区別して,特別国際管理地区とされていた。これは諸宗教の施設への接近と礼拝の自由への配慮であった。この国連決議賛成33カ国にはソ連も含まれていた。1948年5月イギリスの委任統治終了と同時にイスラエルは独立を宣言したが,これは第l次中東戦争の始まりでもあった。周辺アラブ6カ国と新生イスラエルとの激しい戦いは9カ月にわたって展開された。戦争が終結したときイェルサレムはヨルダンとイスラエルの両者によって分割占領されていた。城壁に囲まれた旧市街を含むイェルサレムの東半分はヨルダンに,西にひろがる新市街はイスラエルの占領下にあり,休戦ラインをもとにして設けられた無人地帯が町を南北に横切ることになった。その後イェルサレムの国際管理を求める国連の働きかけはつねに両国によって無視された。

第3次中東戦争とイェルサレムの再統合】状況を一変させたのは〈六日戦争〉といわれる1967年の第3次中東戦争であった。イスラエルは東イェルサレムを含むヨルダン川西岸を占領したが,そのうちとくに東イエルサレムについては,イェルサレムを本来の一つの姿にするという名分のもとに,イスラエルの主権下に併合した。かつての休戦ラインに設けられていた障壁は取り除かれ,神殿跡周辺・旧市内南部(ユダヤ人地区)で考古学的調査を勢力的に実施,とくに第1次中東戦争当時に甚大な被害をこうむっていた旧市内のユダヤ人地区を発掘調査後開発会社の手でまったく新しく再建した。域壁外の東イェルサレム地域の数カ所に大規模な住宅団地を建設してユダヤ人の入植をすすめている。このようにしてイェルサレムの統合化,イスラエル化は急速に促進されてきた。六日戦争後,同年11月に国連安全保障理事会は,安保理決議242号を採択した。ここではイェルサレムの名は言及されてはいないが,戦争行為による一切の領土取得を認めないこと,イスラエル軍隊の占領地からの撤退を要求している。それにもかかわらず実質的に着々とイェルサレムの統合をすすめている現実にたいし,安保理事会は252号(1968),267号(1969)の決議をもって非難したが,他方イスラエルは1980年夏イェルサレム法案を国会で可決し,東イェルサレムの併合を法的にも宣言するにいたり,諸外国の反発を招いた。イェルサレムに置かれていた大使館をテルアヴィヴに移すことによって抗議を表明した国もある。また10万余の東イェルサレム在住アラブ人は,東イェルサレムのイスラエル化に強い不満を抱き,複雑な感情をもちつつ生活していることは否めない。イェルサレム問題は,ユダヤ教・キリスト教・イスラームの3宗教,アラブとイスラエルという2民族,さらに2民族の背後にある諸外国の中東地域への強い関心などが錯綜しており,宗教的要因と政治的要因とがつねに相関している。

〔参考文献〕鶴見真『パレスチナ問題入門』1982,TBSブリタニカ

村田良平『中東という世界』1981,世界の動き社