●イェルサレム王国 イェルサレムおうこく
AD1099
1099〜1187 第1回十字軍がイスラーム教徒の支配下にあったパレスチナを解放し,イェルサレムを首府にして建国した国。第1回十字軍はコンスタンティノープルに集まり,聖地に向かうが,聖地に至るまでに小アジア・シリアでエデッサ・アンティオキア・トリポリを占領し,それぞれ十字軍参加諸侯によって統治されることになる。このためイェルサレム解放の熱意を失った十字軍参加諸侯もローマ教皇の強硬な命令で仕方なく聖地に向かった。したがって,イェルサレム攻撃・占領に続く略奪・虐殺が終わると,十字軍参加諸侯は,小アジア・シリアの自己の領地が気になり,1099年7月22日の会議でイェルサレムを下ローレーヌ公(ブラバン公)ゴドフロア=ドゥ=ブイヨンに托することに決めると早ばやと引き上げていった。自らは「聖墓の代理人」と名乗ったゴドフロアの手許には,数百人の騎士と数千人の兵士がいたにすぎなかった。優勢であった十字軍が勝利の勢いをかって,イスラーム教徒とのあいだに明確な決着をつけておかなかったことは,イェルサレム王国の将来にはかりしれない禍根を残すことになり,海岸沿いに心細げに連なる諸都市を常に不安な状態に置くことになった。さらに十字軍があまりに激しい虐殺を行ったことは,イェルサレムにいた住民を逃亡させ,王国を常に人口不足の状態に置いた。これを解消せんとヨーロッパが送った20万人にのぼる植民者を含む増援の十字軍は,イスラーム軍によって全滅させられてしまった。(1101年8〜9月)。1100年7月18日ゴドフロアが没すると,弟のエデッサ伯ボードアン=ドゥ=ブーローニュがかけつけ,クリスマスにイェルサレム総大司教ダンべールによって加冠されて,イェルサレム王になった。彼は王国を東方的国家にすることによって安泰をはかった。総大司教ダンベールの神裁政治による「神の都」の建設と対立したので,ボードアンは彼を罷免し,後任に副大司教を任命した。彼は王国の永続のために必要なヨーロッパの援助を確保するためには港湾を必要と考え,カイザレア・アッコン・ベイルート・シドンの諸港をジェノヴァ・ピサ連合艦隊の接助を得て占領した。また住民を増やすために,回教徒の支配下にあるギリシア式典礼やシリア式典礼を行っているキリスト教徒の移民を奨励した。このような巧みな政策を背景に,王国につながる「フランク人の三国」(エデッサ伯領・アンティオキア公領・トリポリ伯領)に,イェルサレム国王の権威を認めさせることによって,連邦国家のような体制をつくりあげている。
王国を安泰に保つためには,イスラーム側を分裂状態に置く必要があった。これは3代目のボードワン2世(lll8〜31)まではうまくいき,王国も比較的安定していたが,イスラーム側にトルコ人ヌール=エッディンが出ると,エデッサ伯領はとられ(1146年11月3日),アンティオキア公領も攻められるに至った。期待していた第2回十字軍も内輪もめで王国には何の援助ももたらさなかった。アモーリー1世(1162〜74)ははじめてイェルサレムの問題をエジプトと結びつけた。彼は衰微していたエジプト,ファーティマ朝をヌール=エッディンと争うが,結局ファーティマ朝の司令官サラー=アッディン(1138〜93)サラディンによってファーティマ朝は倒され,王国にとって最悪のイスラーム世界の統一が完成する(1171)。さっそくサラディンはイェルサレムに侵入する。国王ギー=ドゥ=リュジニヤン(在位1186〜92)はテンプル騎士修道会の援助を受けて,ハッティンで戦い惨敗し,ギー王も捕虜になった(1187年7月4日)。幸い,第3回十字軍によって全面的敗退をまぬがれ,アッコンを首府にして王国は存続する。しかし新しい王国はもはや宗教的意志をもたず,もっぱらシリア諸港の占める経済的重要性(すなわち香料貿易)のゆえに,ヨーロッパ,とくにイタリア都市の力で1291年まで続くことになる。イスラエル王国は封建国家であり,騎士の大部分はフランス人であったので,公用語はフランス語であった。国土防衛には騎士修道会が主としてあたったので,それだけ彼らの影響は各方面にみられる。
〔参考文献〕ルネ・グルッセ『十字軍』1954,白水社