50音順    検 索

●イェルサレム

アジア イスラエル国 AD 

 アラビア語ではアル=クドス(聖都)と呼ばれ,イスラエルの首都。パレスチナ地方の現存する世界最古の都市で,ユダヤ教・キリスト教・イスラームの三大宗教の聖地。

【位置】死海の西方25km,地中海沿岸まで約55kmで,パレスチナの中央部ユダ山地の分水嶺に位置し,標高約800mの岩石丘陵上のところにある。気候は地中海式気侯と砂漠気候の影響を受けるため,イスラエルの他地域に比べ温和である。

【歴史】前3000〜前2000ごろ,この町はウルサリムと呼ばれ,エジプトのアマルナ遺跡から発見されたアマルナ文書にも〈ウルサリム〉と記録されている。前2000年代の中ごろから前1000年ごろまでは,エジプトのファラオ王領となっていた。そのころヘブライ人がイェルサレムを占領し,ダビデ王はイスラエル王国の首都とした。その後ダビデの子ソロモンが王位を継ぎ,ヤハウェの神殿を築いた。以後イェルサレムは聖都として町も拡張されていった。前935年に王国がイスラエルとユダヤの二王国に分裂し,イェルサレムはユダヤの中心となった。前586年ごろ,バビロニア王のネブカドネザルは,イェルサレムを占領し,神殿も破壊して市民をバビロンに連れ去った(バビロン捕囚)。その後ペルシアのキュロス王がバビロニアを征服し,イェルサレムはペルシアの支配下に移り,ヤハウェの神殿も再建された。前63年ポンペイウスの率いるローマ軍がイェルサレムを占拠し,ローマの支配下にはいったが,前37年以来ヘロデ王がこの地を占領し,ユダヤ教国として繁栄した。その後,ヘロデ王の孫アグリッパ1世はイェルサレムの拡張に努めたが,統治期間が短く,再びローマの支配下におかれた。ローマ人は135年にヤハウェの神殿を破壊し,ユダヤ教徒を締め出した。やがてイェルサレムはキリスト教徒の巡礼者でにぎわい,コンスタンティヌス1世(大帝)の命でキリスト教の教会が建てられた。

 638年には,イスラーム教徒が団結してイェルサレムを占領し,イスラーム帝国の一部となった。しかし,キリスト教の聖地をけがさず互いに相手の聖地を尊重しあった。

 969年エジプトのファーティマ朝によって占領され,キリスト教徒は迫害された。さらに1077年,セルジューク=トルコが領有し,迫害はいっそう激しくなった。

 1099年第1回十字軍がイェルサレムを占領し,イスラーム教徒やユダヤ教徒の虐殺を行い,指揮官のゴドフロア=ド=ブイヨンが初代王となってイェルサレム王国を建設し,自ら〈聖墓の守護者〉と称した。また彼の後継者として兄のボドゥアンl世が王位につき,イスラーム教徒やユダヤ教徒の定住を許さず,ほとんどがキリスト教徒の町と化した。

 1187年アイユーブ朝のサラーフッ=ディーンはイェルサレムを奪回し,聖墓教会以外のキリスト教建造物はイスラーム化された。その後数回にわたって十字軍がおこったが徒労に終わり,イスラームの聖堂が復元され,キリスト教徒のイェルサレム支配は終わりとなった。

 1517年には,オスマン=トルコの領土となり,スレイマン1世の時代には現存の城壁の大部分が建設された。オスマン=トルコの支配は,第一次世界大戦末期の1917年にィギリス軍に占領されるまで続くが,その間ユダヤ教徒が多くの居住区を設立(1875),イェルサレムに市制を施行(1863),オスマン=トルコ最初の地方自治体法を成立(1877)させた。

 1920年からパレスチナがイギリスの委任統治下におかれると,イェルサレムはその首都となった。それ以後,1917年11月に発表された,戦後のユダヤ人国家建設支持を約束する,いわゆる「バルフォア宣言」により,ユダヤ教徒の移民が増加し,アラブ人と摩擦をおこし,数年にわたって流血騒ぎの場となったイェルサレムは,結局,ユダヤ人地区とアラブ人地区に分割されてしまった。

 第二次世界大戦後,国際連合はユダヤ国家設立のため,パレスチナの分割案を採択した。1948年,イギリスの委任統治が終わると,イェルサレム確保のためユダヤ人とアラブ人の激しい武力衝突が始まり,その結果旧市街はアラビア人のヨルダン王国,新市街は1949年にユダヤ人のイスラエル共和国の首都となったが,度重なる武力衝突は1967年の六日戦争まで続き,イスラエル軍が旧市街をも占領し,イェルサレムは再び統一されたのである。