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●イエズス会(ラテンアメリカ) イエズスかい

AD1534 

 1534年スペイン人イグナティウス=ロヨラが設立し,折から新大陸の発見の直後であったため,非キリスト教世界への布教を重要な任務とした。

【アメリカ大陸での活動】イエズス会は,16世紀中葉にポルトガル領ブラジル植民地,16世紀末80年代にスペイン領アメリカに入り,都市のヨーロッパ系住民の子女の教育と辺境のインディオの教化部落の形成と彼らの教化と保護に専念し,大きな勢力を築いた。それだけに,入植者,他の修道会,王室宮吏の反感を買うことも多く,18世紀後半に,ポルトガルとスペィンの両帝国から追放され,教皇も1773年に同会を解散させた。1814年に教皇は復活を許可したが,独立後のラテン=アメリカ諸国では反教権主義が強くなり,いくつかの国では,幾度となく解散と復活を繰り返した。

【ブラジルのイエズス会】1549年ブラジルで最初のイエズス会士6名がサルバドルに到着した。初代総督トメ=デ=ソウザが赴任する際に同行した1,000名の入植者・官吏・兵士などの人々に加わっていたのである。1554年には今日のサン=パウロ市の起源となったピラチニンガの教化部落アルデイアが同会により開設された。この地が内陸に向かって流れるチエテ川に面し,アルデイアのネットワークをひろげていく基地となる条件を備えていたからである。16世紀のノブレガやアンシエタ,17世紀に北のマラニャオンで活躍したヴィエイラなどは,インディオの武力征服や奴隷化に反対し,そのためイエズス会は,入植者の怒りを買った。しかし,同会は,王室に働きかけて,辺境のインディオの排他的教化および監督権を得た。都市の教育施設も同会の独占的事業であった。

【スペイン領アメリカのイエズス会】イエズス会士がこの地域に渡来したのは,1568年のことである。1573年にスペイン王がインディオの「平定勅令」を公布し,武力征服は一応禁止され,教会人による教化部落ミシオン,レドゥクシオンが平定と同化の手段となった。高文化地帯の征服は,すでに完了していたので,今日のアルゼンチン北部・パラグアイ・メキシコ北部・ベネズエラのオリノコ川流域などの漂泊的狩猟採集民の教化部落への定着と教化が,おもに,組織力をもつイエズス会により,1580年代から行われ,相当の成功を収めた。教化部落では,教会を中心として,整然とした集落がつくられ,白人の入域を禁止して,修道士の家父長的な指導のもとに,規則的な労働生活が営まれた。皮肉なことにイエズス会が開設したサン=パウロは,ブラジル南部をスペインに対して防衛するため,まもなく俗人入植者主体の町となり,内陸探険隊バンデイラの根拠地となってしまった。彼らは,貴金属や宝石を探し回ったが,結局最も確実な収益活動として,スペイン系の教化部落を襲い,改宗者であるインディオ住民を捕え,奴隷として農園などに売り払った。パラグアイでは,イエズス会の創設した33のミシオンのうち,22までがバンディラに破壊され,廃跡と化した。しかし,生き延びたミシオンは,17世紀にその最盛期を迎えた。アルゼンチン北部にはミシオネスという州名が残っている。

【イエズス会の禁止と迫放】18世紀の啓蒙専制君主の時代になると,特権を保持して,超国家的な大組織に成長していたイエズス会は,各国の王室の敵とみなされた。同会は,免税・専売権・インディオ労働力の用益権・教育事業の独占・貴族の子弟の入会などにより,強い政治力と経済力を兼ね備えていた。南米南部でのグアラニー戦争(1753〜56)で同会がスペインとポルトガルの連合軍と敵対する立場に立ったことから,1759年ポルトガル帝国から,1767年スペイン帝国から同会は追放され,植民地に衝撃を与えた。