●イエズス会(中国) イエズスかい
アジア 中華人民共和国 AD
【明代における宣教師の活動】ザビエルは日本滞在中に中国への布教を決意し,広東省沖の上川(じょうせん)島から渡航を試みたが,失敗してこの島で死んだ。そのあと巡察師ヴァリニャノの指導のもとに,イエズス会の宣教師たちは“適応”の万法をもって中国内に布教の足場を確保することにつとめ,それに成功した。適応とはその布教する土地の風俗習慣に順応した布教方法をとることで,中国の場合はまず中国語を学び,このことばで説教し,告解を聴けるようにし,さらにはこの国の指導僧が読書人であることから,一方では,中国の古典を十分に学んでかれらと対等に交際ができるようにつとめるとともに,西洋の学問を翻訳刊行することによって,有識者の尊敬を勝ち取るよう力を注いだ。その結果マテオ=リッチは1601年(万暦29),北京入りに成功し,ここに住院を建て,1610年に死亡するまで,徐光啓(じょうこうけい)・李之藻をはじめとするかなり多くの信者を獲得した。彼の死後1616年に南京を中心として大迫害が発生してイエズス会の布教は大打撃を受けたが,彼らの有する大砲製造の知識や天文暦学の知識は落日の明朝にとっては必要欠くことのできないものであったので,いったん追放された宣教師たちも再び迎えられ,急に倍する勢いで信者を増やしていった。北京の宮廷のなかにも宦宮たちによる信者団が形成され,南京・杠州・上海・西安・福州などに盛んに布教活動が行われた。そのため明代にあってキリスト教が伝えられなかったのは雲南・貴州だけであったといわれる。明の正統が1644年(崇禎17)に滅亡したのち,南万に擁立された明の皇室の血を引く諸王のうちで最も有力であった桂王永暦帝の朝廷には皇太后・皇后・皇子をはじめ,多数の信者があったが,これらはいずれもイエズス会宣教師の手で受洗したものである。彼らは,上記のように布教に役立てるために多数の西洋学術書を刊行したが,その多くは江戸時代の日本に渡来し,鎖国下の日本人の知識を向上するのに役立った。なかでも有名なのは,『坤輿万国全図』・『幾何原本』『崇禎暦書』『職方外紀』『泰西水法』・『名理探』などである。【清朝初中期における活動】清朝は入関後,直ちに正確な暦の心要上アダム=シャールを天文台である欽天監に登用して公暦を作製させ,のちには台長である監正に任命した。これを足がかりとして清初多数の宣教師が渡来し,信者の数は一挙に増大した。しかし,康煕の初年公暦の作製を西洋人にゆだねるのは好ましくないとする漢人や回教徒の反対運動が功を奏し,宣教師たちは欽天監から追われ,諸省にいた宣教師たちは広東に集められて監禁された。康煕は親政を始めるや,再び宣教師を欽天監に復活させ,公暦を作製させた。しかし布教に対する自由は得られなかった。宣教師たちはその後も造暦・三藩の乱平定のための大砲製造・ネルチンスク条約締結への奉仕などに尽力し,その功が認められて1692年(康煕31)布教が公許された。初め中国で働くイエズス会宣教師は,ポルトガル王の援助を得て来華したが,1687年(康煕26)フランス王の遣ったフランス=イエズス会士の一団が来朝し,その後,彼らは活発な布教と学術活動を行った。しかし,いわゆる典礼問題の発生・雍正帝による禁教・1773年(乾隆31)のイエズス会の解散によってイエズス会の中国における活動はいったん停止した。
【1842年以後の活動】イエズス会は1814年(嘉慶19)に復活を認められたが,中国には1842年(道光22)に再度上陸し,江蘇・安徽・河北の諸省で活動し,1847年(道光27)上海の徐家匯(じょかわい)の徐光啓の墓地の近くに本部を置いた。ここに建てられた聖イグナチウス学院は,1850年には信者の家族以外にも入学の道を開いた。教育修道会であるイエズス会は1903年(光緒29)に上海に震旦大学,1922年(民国11)には天津に工商学院の両大学を開設した。やがて,同会は江蘇省の一部と安徽省の布教を分担し,1937年(民国26)には信者数12万8,446名,経営する中学校の生徒2,207名,小学校児童1万8,314名を数えた。新中国になったのちのことは明らかでない。